無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

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  • 喜多川歌麿と艶本

    艶本(えほん)は枕絵とか、春本とか、わ印(わらい本)とか呼ばれています。 江戸時代、幕府に禁止されていた書物ですが、版元は裏に隠れて盛んに出版していました。それを描く浮世絵師も勿論、禁止されているのを承知で、腕によりを掛けて描いていました。 美人絵を描かせたら天下一品と言われる歌麿は当然のごとく、... 続きをみる

  • 山東京伝

    十返舎一九が活躍していた当時、江戸で一番有名な作家は山東京伝でした。 京伝に憧れて戯作者になった者も多く、一九を初めとして、「里見八犬伝」の曲亭馬琴も、「浮世風呂」の式亭三馬も、「自来也説話」の感和亭鬼武も皆そうです。 京伝は初め、絵師を目指して北尾重政の弟子になります。北尾政演の名で美人絵なども... 続きをみる

  • 十返舎一九

    十返舎一九といえば、映画「写楽」に出ていた片岡鶴太郎が演じた少しお調子者の一九を思い浮かべますが、実際の一九は生真面目な男だったようです。 生まれは駿河の国で、父親は駿府の奉行所に勤めていた武士で、本名は重田幾五郎です。 20歳の頃、江戸に出て、23歳の頃には大坂に移ります。武士になる事をやめて浄... 続きをみる

  • 喜多川月麿

    群馬県の草津温泉で一番古い旅館「日新館」のお食事処の飾り棚に三枚続きの浮世絵が飾ってあります。 江戸時代の日新館の座敷の様子を描いたもので、芸者風の女性が八人、水汲みの女性が一人、若旦那風の男が一人、風呂上りにくつろいでいます。煙草盆と水桶に「湯安」と書いてあり、当時、湯本安兵衛と名乗っていた日新... 続きをみる

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  • 信州追分宿の飯盛女

    飯盛女とは宿場にいた下級娼婦の事です。宿場女郎とも呼ばれます。 浅間山の南側を通る中山道には軽井沢宿、沓掛宿(中軽井沢)、追分宿と三つの宿場があって、どこにも飯盛女はいました。中でも、追分宿の飯盛女が一番、評判がよかったようです。 追分宿には60数軒の旅籠屋があって、飯盛女のいる宿屋は50軒近くあ... 続きをみる

  • 大戸の加部安左衛門

    上州吾妻郡大戸村に代々、加部安左衛門を名乗る上州一の分限者がいました。みんなから加部安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。 初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。 三代目から加部姓を名乗ります。三代目から五代目までは八右衛門を名乗っていて、六代目から安左衛門を名乗ってい... 続きをみる

  • 葛飾北斎

    「富嶽三十六景」で有名な北斎は、一般に「葛飾北斎」の名で親しまれていますが、色々な画号を使っています。 幼い頃は時太郎、元服してからは鉄蔵が本名です。 20歳の頃、役者絵で有名だった勝川春章の門人となって、勝川春朗の画号を貰います。時々、群馬亭や白山人可候を名乗る時もありますが、36歳頃までは春朗... 続きをみる

  • 蓮如の妻たち

    蓮如の布教に大いに役立ったのが、子供たちです。男の子は各地に飛んで、寺の坊主となり、蓮如の教えを広めて門徒たちの中心になります。女の子は有力寺院に嫁いで教団の結束を固めます。 その子供たちの数は、驚く事に27人もいます。男の子が13人、女の子が14人です。本願寺の法主として妾が何人もいたのだろうと... 続きをみる

  • 九十九茄子

    九十九(つくも)茄子は天下一の名物茶器といわれるお茶入れです。作物茄子、九十九髪茄子、付藻茄子と書かれる場合もあります。 南北朝時代の武将、佐々木道誉が室町幕府3代将軍足利義満に贈った唐物のお茶入れで、義満は大層気に入って常に身近に置いていたといいます。 その後、代々将軍家に伝わりましたが、8代将... 続きをみる

  • 天正10年(1582年)頃の物価

    織田信長が殺された頃の物価を調べてみますと、米1石が京都で1200~1500文、奈良では600~800文です。京都は奈良の倍近く、物価が高かったようです。 1石は10斗で、1斗は10升です。1石というのは一升瓶100本分という事です。銭1000文は1貫文といいます。 大豆1石が京都で1000~13... 続きをみる

  • 夢庵(牡丹花)肖柏

    一休禅師の周りには変わり者が何人もいましたが、連歌師の夢庵もその一人です。角に金箔を塗った牛に乗って漂泊の旅をしていたと伝えられている変わり者です。 生まれは中院家という身分の高いお公家さんで、幼い頃より宮廷に出入りし、お家芸の和歌を嗜んでいました。 二十歳の頃、連歌師の心敬の弟子になり、何年かし... 続きをみる

  • 上杉三郎景虎

    上杉謙信の養子となり、謙信の出家前の名前、景虎を名乗った三郎は北条氏康の八男です。幼い頃より出家して、西堂様と呼ばれていました。何事もなければ、そのまま僧侶として長生きした事でしょう。 運命が変わるのは18歳の時です。その年の暮れ、北条幻庵の跡を継いでいた新三郎が武田軍に攻められて戦死してしまいま... 続きをみる

  • 海野能登守輝幸

    海野能登守は上野国羽尾(群馬県吾妻郡長野原町)城主、羽尾治部少輔の三男に生まれます。 幼い頃より剣術の修行に励み、18歳頃、武術の聖地だった鹿島に行って、新当流の塚原卜伝の弟子になります。卜伝と共に諸国修行の旅をしながら修行を積みます。 30歳の頃には師の卜伝と別れて、一人で旅をしていたようですが... 続きをみる

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  • 岩櫃城

    群馬県吾妻郡の岩櫃城は甲斐の武田氏の上州攻略の拠点となった山城です。 関東管領の上杉氏が小田原の北条氏に敗れて、越後に逃げた後、武田信玄は上州を我が物にしようと攻め寄せます。 初め、碓氷峠を越えて攻めますが、箕輪城の長野業政に遮られます。名将と謳われた業政を倒すのは難しいと考えた信玄は、次に鳥居峠... 続きをみる

  • 北川殿

    北条早雲の実の妹である北川殿の本名は伝えられていません。 今川義忠が京都から輿入れして来る花嫁のために、北川のほとりに屋敷を建てたので北川殿と呼ばれています。 早雲の実の妹と言っても、年齢は20も離れていて、しかも、北川殿が生まれた時、早雲は京都の伊勢家に居候していました。 備中の国の伊勢家に生ま... 続きをみる

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  • 北条早雲の子供たち

    早雲は40歳の頃、武士をやめて旅に出ます。幕府に仕えていた頃、妻もあって子供もいたと思いますが、はっきりとわかりません。 妹の北川殿がいる駿河の国に落ち着いて、今川家の家督争いを治めた後、今川家の武将として興国寺城主になります。その時、長男の新九郎氏綱はもう生まれています。氏綱の母親は小笠原氏のよ... 続きをみる

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  • 北条早雲

    一般に北条早雲の名で知られていますが、早雲自身は一度も北条の姓を名乗ってはいません。 三十代の頃、伊勢新九郎という名で幕府に仕え、将軍になるはずだった足利義視の申次衆を勤めています。応仁の乱の頃です。悲惨な戦を目の当たりにして、無能な幕府や武士に嫌気が差し、頭を丸めて早雲と名乗り、旅に出ます。早雲... 続きをみる

  • 夢想願流 松林蝙也斎

    蝙也斎(へんやさい)は15歳の時に上州と信州の国境に聳える浅間山に籠もって、三年間の修行の後、夢想願流という独自の武術を編み出して、武者修行の旅に出ます。 時は慶長15年(1610)、戦国時代が終わりを告げようとしていた頃です。 30歳の頃は関東郡代を務める旗本の伊奈備前守のもとに居候して、剣術を... 続きをみる

  • 二階堂流平法 松山主水

    二階堂流平法は慈恩禅師の弟子の二階堂右馬助が編み出した流派です。 どういう経路で伝わったのかわかりませんが、美濃の郷士、松山氏に伝わります。 松山主水の祖父は軍師竹中半兵衛の従弟で、半兵衛の旗本として戦で活躍します。半兵衛の死後、浪人となった祖父は各地を流浪した後、豊臣秀吉の斡旋で加藤清正に仕えま... 続きをみる

  • 神夢想林崎流 林崎甚助

    林崎甚助は抜刀術(居合)の始祖で、田宮流を開いた田宮平兵衛、伯耆流を開いた片山伯耆守、無楽流を開いた長野無楽斎、関口流を開いた関口柔心、一宮流を開いた高松勘兵衛は皆、甚助の弟子たちです。 甚助は天文年間(1532年~1555年)の半ば頃、出羽の国の林崎村(山形県村山市)に生まれたと伝えられています... 続きをみる

  • 奥山休賀斎

    上泉伊勢守門下の四天王の1人です。本名は奥平孫次郎公重といい、三河の国、奥山郷の生まれです。三河からどういう経路で上州まで来たのかはわかりませんが、伊勢守が上泉城にいた頃の弟子のようです。 伊勢守から印可を貰った後、三河に帰って奥山明神に籠もり、剣の奥義を悟ったと伝えられます。その時、新陰流を神陰... 続きをみる

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  • 神後伊豆守宗治

    上泉伊勢守の門下で、疋田豊五郎と双璧を成していたのが、神後伊豆守です。 越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められて、上泉城が落城した後、豊五郎と共に伊勢守の供をして上洛の旅に出ます。その時、鈴木意伯と改名しています。なぜだか、わかりません。上州を去るに当たって、神後家の家督を弟に譲り、妻の姓を名乗... 続きをみる

  • 上泉伊勢守と箕輪城

    永禄9年(1566年)の9月、武田信玄に攻められて、上野の国(群馬県)の箕輪城は落城します。その時、上泉伊勢守が箕輪方の武将として活躍したと言い伝えられています。数々の資料に目を通し、小説も読んで、私もそう信じていました。 しかし、小説を書くに当たって当時の状況を調べてみますと、腑に落ちない点がい... 続きをみる

  • 上泉伊勢守

    上泉伊勢守は上泉城(群馬県前橋市)の城主の倅として1508年に生まれました。 15歳前後で元服して、鹿島に武術修行に出ます。当時、鹿島神宮と利根川を挟んで対岸にある香取神宮は、武術の聖地として栄えていました。伊勢守は鹿島で松本備前守という武将から神道流を学びます。二年間位、鹿島で修行したのだろうと... 続きをみる

  • 愛洲移香斎

    愛洲移香斎は陰流の流祖です。現在の剣道の源流とも言えるでしょう。 移香斎の本名は愛洲太郎左衛門久忠といい、生まれは伊勢の国(三重県)の南端、五ケ所浦で、応仁の乱(1467年)が始まる15年前に生まれています。 愛洲氏は南北朝の頃、伊勢の国に入ってきた北畠氏を助けて、南朝方として活躍して名をあげます... 続きをみる

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  • 針ヶ谷夕雲(1593-1662)の関連年表

    1590年 7月 11日 北条氏滅亡する。     8月 1日 徳川家康、江戸城に入る。 1592年 1月 5日 豊臣秀吉、朝鮮、明への出兵を諸将を命じる。 1593年     針ヶ谷夕雲、生まれる。 1歳        この年、神子上典膳(後の小野次郎右衛門忠明)、徳川家に仕える。 1594年 ... 続きをみる

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  • 21.相抜け

     木陰に座り込み、五郎右衛門は木剣を作っていた。昨日、また、折ってしまい、何本も作っておいた木剣が、とうとう、なくなってしまった。お鶴から教わった唄を口ずさみながら木を削っていた。  突然、照れ笑いをすると空を見上げた。  昨夜、満月がよく出ていたのに、今日は一雨来そうな、うっとおしい空模様だった... 続きをみる

  • 19.仁王様の剣

     新たに、二人の生活が始まった。  五郎右衛門は剣を振ったり、座禅をしたり、お鶴と一緒に酒を飲んだりしながら考え続けていた。  活人剣(カツニンケン)とは‥‥‥  無心とは‥‥‥  お鶴は、いつも何かをやっていた。五郎右衛門は一々、お鶴の事を気にしていたわけではないが、くだらない事を真剣になってや... 続きをみる

  • 16.夢想願流、松林左馬助

     お鶴は二日めの朝になっても目を覚まさなかった。  焚き火がどんどん燃えている暖かい岩屋の中で、たっぷりと敷いた藁の上に、お鶴は寝ていた。落ちた時に打ち所が悪かったのか、体に熱を持っていた。五郎右衛門は座禅をしながら、小まめにお鶴の看病をしていた。  なぜじゃ。  なぜ、お鶴はあんな事をしたんじゃ... 続きをみる

  • 15.花見酒

     お鶴が姿を見せなくなった。  昔話をしながら夜遅くまで酒を飲み、朝になると風呂に入って来ようと帰ったまま、もう五日も現れなかった。  五郎右衛門はお鶴の事が気になり、修行どころではなかった。毎日、毎日、木剣を振りながら、小川の方をチラチラ見るが、お鶴はやって来ない。お鶴の足が濡れないようにと、小... 続きをみる

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  • 14.行くな戻るな、たたずむな、立つな座るな、知るも知らぬも

     冷たい風の中、五郎右衛門は朝から木剣を振り続けていた。  昼頃、和尚がのっそりと現れた。 「おっ、また棒振り禅を始めたな」と言いながら目を細めた。そして、空を見上げると、「雪が降りそうじゃのう」と言った。  五郎右衛門も木剣を降ろすと空を見上げた。 「この辺りは雪が多いのですか」 「いや、それ程... 続きをみる

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  • 10.とぼけた和尚

     いい天気だった。  昨日、積もった雪が光って眩しかった。  下界ではもうすぐ、桜の咲く時期なのだが、山の中はまだまだ寒かった。  五郎右衛門は今日も飽きずに木剣を振っていた。新陰流、猿飛(エンピ)の太刀の形(カタ)を繰り返し繰り返し稽古していた。  昨日は相当まいったとみえて、今朝、お鶴は来なか... 続きをみる

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  • 5.お鶴という女

    「エーイ、ヤー」  雪に覆われた山の中で、武芸者は立ち木を相手に木剣を打っていた。木剣が木を打つ音と武芸者の掛け声が静かな山々に響き渡った。  立ち木は枯れ枝を伸ばし、武芸者の木剣と冬の寒さにじっと耐えている。武芸者が打っている立ち木だけが雪を被っていなかった。  凍えるような寒さの中、武芸者は白... 続きをみる

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  • 織田上総介信長の台詞

    「藤吉郎伝―若き日の藤吉郎伝 20.夢に向かって」より織田上総介信長の台詞 生駒家の娘、吉乃(きつの)に惚れていた藤吉郎(後の豊臣秀吉)でしたが、自分に自信のない藤吉郎はその事を告白できず、織田上総介信長に奪われてしまいます。悔しくて、泣きながら弓矢を放った後、藤吉郎は信長がいる吉乃の屋敷に戻りま... 続きをみる

  • 愛洲移香斎の娘、桔梗の台詞

    「摩利支天の風~若き日の北条幻庵 11.桔梗1」より愛洲移香斎の娘、桔梗の台詞 愛洲移香斎の娘、桔梗は一年間の風摩砦での武術修行が終わった後、師範代を務めた菊寿丸(後の北条幻庵)の部屋に来て、ぐいぐいと酒を飲み始めます。 「おい、ちょっと速すぎるぞ。もっと、ゆっくりと飲め」と菊寿丸は言いますが、「... 続きをみる

  • 本願寺の老僧の台詞

    「陰の流れ 第三部・本願寺蓮如 1.蓮如」より本願寺の老僧の台詞 大峯山で昔の友、火乱坊と出会った風眼坊は火乱坊と一緒に加賀の国へと行きますが、暇をもてあまして、白山でも登るかとふらりと山の中に入ります。 山の中で偶然に出会ったのが本願寺門徒の老僧でした。話をしてみると本願寺の事に詳しいので、 「... 続きをみる

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  • 風眼坊舜香の台詞

    「陰の流れ 第一部・天狗勝 9.山伏流剣法」より風眼坊舜香の台詞 愛洲水軍の大将の倅、愛洲太郎(後の移香斎)は応仁の乱をこの目で見ようと京都へと旅立ち、その悲惨な有様を見て、故郷に帰ってからしばらく放心状態でいましたが、今の世は強くならなければ何もできないと剣術の修行を始めます。 山の中で風眼坊(... 続きをみる

  • 大前田栄五郎の台詞

    「侠客国定忠次一代記 11.叔父御は大した貫禄だア」より大前田栄五郎の台詞 天保4年(1833年)7月、大前田栄五郎(英五郎)親分が百々一家の親分、国定忠次(忠治)を訪ねて来ます。6年振りの再会でした。 その日は丁度、境宿に絹市が立つ日で、忠次は栄五郎を伊勢屋で開かれている賭場に案内します。大親分... 続きをみる

  • コンウォール・リー

    群馬県の草津温泉は万病に効くと言われ、古来より湯治客が絶えませんでした。その中にはハンセン病(ライ病)患者も多くいました。 明治20年(1887年)、草津の町内に住み着いていたハンセン病患者たちは湯の沢(現在の大滝の湯の周辺)に集められます。文明が開化して、観光に力を入れようとしていた町にとって、... 続きをみる

  • 豊臣秀吉と草津温泉

    文禄4年(1595年)正月、豊臣秀吉は草津温泉に湯治に出かける計画を建てました。当時の草津温泉は真田昌幸の領内で、草津の領主は湯本三郎右衛門です。 8年前の天正15年(1587年)4月には、秀吉の妹で、徳川家康の妻となった朝日姫が草津の湯に入っています。翌年の天正16年には、秀吉の養子になった秀次... 続きをみる

  • 室町幕府八代将軍、足利義政

    足利義政といえば、銀閣寺を建てた将軍として有名ですが、将軍としての仕事をする事ができずに、応仁の乱の原因を作ってしまった人と言えます。 義政は、嘉吉の変で赤松氏に殺された六代将軍義教の子で、七代将軍義勝の弟です。次男なので当然、僧侶になる予定でしたが、兄が10歳で亡くなってしまったために、8歳の時... 続きをみる

  • 山科言継

    山科言継(やましなときつぐ)はお公家さんで、戦国の世に寂れてしまった宮廷を建て直すために奔走した人です。各地の武将を訪ねては得意な蹴鞠や和歌の指導をして献金を集めました。 上泉伊勢守が武将をやめて武芸者として京都に行った時、山科言継は伊勢守のために色々とお世話をしています。伊勢守が京都に道場を開く... 続きをみる

  • 内藤修理亮昌豊

    内藤修理亮(しゅりのすけ)昌豊は甲斐の武田家の重臣です。 父親の工藤下総守虎豊は武田信虎の重臣でしたが、信虎の勘気に触れて殺されてしまいます。昌豊は兄と一緒に甲斐の国を去って旅に出ます。 信玄が父の信虎を追放して家督を継いだ後の天文15年(1546年)、昌豊は甲府に呼び戻され、工藤家の旧領を与えら... 続きをみる

  • 北条氏時

    北条氏時は伊勢(北条)早雲の次男です。長享3年(1489年)頃、駿河の興国寺城で生まれます。母親は葛山(かづらやま)備中守の娘のようです。 15歳頃、元服して、新六郎氏時を名乗り、22歳の頃には、岡崎城攻めの前線基地だった鴨沢の要害を守っています。 永正9年(1512年)8月、父早雲は三浦道寸の岡... 続きをみる

  • 三代目中村歌右衛門

    文化5年(1808年)3月、31歳の時に、中村歌右衛門は上方から江戸に下って来て大活躍します。 目はぎょろっとして体は小さく、体格や容貌には恵まれなかったようですが、演技力でカバーして江戸っ子たちの人気者になります。 主役だろうが悪役だろうが、男役だろうが女役だろうが何でもこなして、一つの芝居の中... 続きをみる

  • 江戸時代の歌舞伎

    江戸時代の文化といえば、歌舞伎を除く事はできません。芝居見物は庶民たちにとって一番の娯楽で、当時の流行も歌舞伎役者たちから発信されていました。有名な役者たちは、今で言えば大スターで、井戸端に女たちが集まれば、噂話に花を咲かせていました。男たちも役者の声色を真似たり、粋な着こなしを真似していたようで... 続きをみる

  • 島添大里按司

    島添大里按司(しましぃうふざとぅあじ)の本拠地、島添大里グスクは馬天港と与那原港を見下ろす山の上にあります。「島添」とは島々を支配するという意味があり、島添大里按司はかなり古くから勢力を持っていた按司のようです。 初代の浦添按司(うらしいあじ)、舜天(しゅんてん)の母親は島添大里按司の娘だったと伝... 続きをみる

  • 思紹

    尚巴志(しょうはし)の父親、苗代大親(なーしるうふや)は中山王(ちゅうざんおう)となって思紹(ししょう)と名乗ります。 1354年に沖縄本島南部の佐敷(南城市)に生まれます。父親は佐銘川(鮫川)大主(うふぬし)、母親は大城按司(うふぐすくあじ)の娘です。 美人として評判だった美里之子(んざとぅぬし... 続きをみる

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     琉球王国は日本の国ではありません。ですから、日本史では琉球の歴史は学べません。  私が、尚巴志(しょうはし)という人物を知ったのは15年ほど前の事です。それまで、私はその存在すら知りませんでした。  「沖縄二高女看護隊・チーコの青春」を書くとき、沖縄の昭和史は調べましたが、それ以前の事は何も知り... 続きをみる

  • 可愛いスーちゃん

    可愛いスーちゃん お国のためとは 言いながら 人の嫌がる 軍隊に 志願で出てくる バカもいる 可愛いスーちゃんと 泣き別れ 朝は早よから 起されて ぞうきんがけやら はき掃除 いやな上等兵にゃ いじめられ 泣く泣く送る 日の長さ 乾パンかじる ひまもなく 消灯ラッパは 鳴りひびく 五尺の寝台 わら... 続きをみる

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  • 渡辺はま子

    あゝモンテンルパの夜は更けて  渡辺はま子 戦時中、女学生たちが好んで歌った歌に「愛国の花」という歌があります。明治時代に作られた「婦人従軍歌」に対して、昭和の「婦人従軍歌」と呼ばれました。歌ったのは渡辺はま子です。 昭和13年に国民歌謡としてラジオで放送されて、大反響になってレコード化されまし... 続きをみる

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  • 玉村宿の玉斎楼

    日光例幣使道の玉村宿は飯盛女と呼ばれる宿場女郎が大勢いた事で有名ですが、中でも、玉斎楼(ぎょくさいろう)と呼ばれた万屋(よろずや)は玉村一の旅籠屋でした。 玉斎楼は豪奢な構えで、江戸の吉原にも2軒とはあるまいと言われ、近くにある岩鼻代官所の代官や関東取締出役がよく利用していました。1868年の記録... 続きをみる

  • 弁天のおりん

    日光の円蔵の妻は女壷振り師で、通り名を弁天のおりんといいます。 そのいわれは博奕打ちに成り立ての若い頃、勝負に負けてオケラになってしまい、悔しくて帰る事もできず、襦袢姿になって着物を賭けました。それでも負けてしまい、ついに素っ裸になって襦袢と腰巻も賭けました。ようやく、運が巡って来て勝負に勝ち、着... 続きをみる

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    国定忠治に殺された島村の伊三郎は東上州の利根川流域を仕切っていた親分でした。 船問屋の倅に生まれて、二十代の半ば頃、無宿者になって島村一家を張ります。本姓は町田といい、背丈が6尺もあった大男だと伝えられています。最初の縄張りは島村と平塚河岸でした。 当時の平塚は江戸と上州を結ぶ航路として栄えていま... 続きをみる

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  • 大前田栄五郎

    大前田栄五郎の本名は田島栄五郎です。一般に大前田村の栄五郎で通っていますが、大前田一家の親分ではありません。大前田一家は兄の要吉が継いでいたので、栄五郎は旅で男を売って名を上げました。名古屋から伊豆にかけて東海地方に縄張りを持っていたようです。 15歳の時、兄弟分の月田村の栄次郎と一緒に三下奴を斬... 続きをみる

  • 草津温泉の俳人、雲嶺庵鷺白

    鷺白(ろはく)は本名を黒岩忠右衛門といい、老舗の宿屋の主人です。現在の「ホテル望雲」の先祖にあたります。 芳草舎、老狸窟、雲嶺庵と号して、小林一茶とも交流がありました。一茶は文化5年(1808年)、信州に帰る途中、草津温泉に寄って鷺白を訪ねています。その時は18年振りの再会だったようです。 鷺白は... 続きをみる

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  • 感和亭鬼武

    感和亭鬼武(かんわていおにたけ)はもと武士で、本名は前野曼七といいます。神道無念流の剣術の達人で、一橋家の勘定役を務めていたのに、さっさと隠居してしまい、戯作に専念するために侍をやめて町人となった変わり者です。 飯田町に住んでいましたが浅草に移り、山東京伝の門人になって戯作を学び、絵は谷文晁に学ん... 続きをみる

  • 東海道中膝栗毛

    弥次さん北さんで有名な「東海道中膝栗毛」が発表されたのは享和2年(1802年)の事でした。作者は十返舎一九で、それまでに何作もの黄表紙を発表していましたが、話題になるほどの作品はありませんでした。 「膝栗毛」は黄表紙ではなく滑稽本で、一九は書き上げた原稿をかつて居候をしていた事もある蔦屋重三郎のも... 続きをみる

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    連歌師の宗長は駿河の国、島田の刀鍛冶、五条義助の次男に生まれ、武士として今川義忠に仕えます。 19歳の時、駿河に来た宗祇と出会い、連歌師に憧れます。宗祇に弟子にしてくれと頼みますが、断られました。 一時は連歌師の道を諦めて、武士として生きていましたが、25歳の時に、駿河にやって来た伊勢早雲と出会っ... 続きをみる

  • 種玉庵宗祇

    宗祇は連歌師の第一人者です。連歌会所奉行職を務め、連歌界の総元締のような立場にありました。 室町時代から戦国時代にかけて、武将の嗜みの一つに連歌がありました。 連歌とは数人が集まって句の詠み合いをする即興的な遊びで、まず、師匠格の人が発句と呼ばれる五・七・五の句を詠みます。次に、亭主格の人が脇句と... 続きをみる

  • 朝倉孝景

    朝倉孝景は越前守護の斯波氏の重臣の一人でした。 斯波氏が義敏と義廉で家督争いを始めると義廉方に付きます。 応仁の乱が始まると義敏は東軍となり、義廉は西軍となります。孝景は西軍の武将として京都で活躍します。ところが、文明3年(1471年)、孝景は突然、東軍に寝返ります。 将軍足利義政から密かに、東軍... 続きをみる

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    天正十年(1582年)の5月、絢爛豪華な安土城内で織田信長は悪夢にうなされます。 毎夜、同じ夢を見て、汗びっしょりになって真夜中に目を覚まします。 自分が何者かに殺され、子供たちも妻や側室たちも皆、無残に殺されて、天下を奪われる夢です。夢の中では、自分を殺す者が何者かわかって、くそ、おぬしなどにや... 続きをみる

  • 武田勝頼夫人

    三郎景虎は北条家から上杉家の養子になりましたが、三郎の妹で武田家に嫁いだ娘もいます。 武田勝頼は二十歳の時に織田信長の養女を妻に迎えますが、二年後に信勝を産んだ後、亡くなってしまいます。それから10年間、勝頼には正妻はいませんでした。 今川家の問題で対立した北条と武田は北条氏康の死後、再び、同盟を... 続きをみる

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    お松は武田勝頼の腹違いの妹です。母親は油川殿と呼ばれ、美人揃いの信玄の側室の中でも最も美しかったといわれています。油川殿には三人の子供がいて、仁科家を継いだ五郎盛信、お松、お菊です。五郎は信玄の子供たちの中で、一番、面影が信玄に似ていたといわれ、お松、お菊の姉妹は母親似の美人でした。 お松は7歳の... 続きをみる

  • 真田昌幸

    真田昌幸は一徳斎幸隆の三男として生まれます。 父の一徳斎は戦に敗れて領土を失い、一時は浪人となって上州に隠れていました。昌幸が生まれた頃は武田信玄に仕えていましたが、まだ、領土を取り戻す事はできず、甲府にいたのかもしれません。 昌幸5歳の時、父親は戸石城を攻め落として、領土を取り戻し、真田に復帰し... 続きをみる

  • 織田信長と鉄砲

    天文12年(1543年)8月、ポルトガル人によって種子島に新兵器の鉄砲が伝えられます。天文3年生まれの織田信長が9歳の時です。 6年後の天文18年、薩摩の島津貴久が城攻めに鉄砲を初めて使用します。同じ年に、15歳の信長は近江、国友の鉄砲鍛冶に500挺の鉄砲を注文しています。そして、天文22年、信長... 続きをみる

  • 海野長門守幸光

    海野長門守は上野の国(群馬県)、吾妻郡の長野原城主で、岩櫃城の斎藤越前守の重臣です。隣村の羽尾城主、羽尾道雲は兄で、新当流の武芸者としても有名な海野能登守は弟です。 海野三兄弟は信濃の海野氏の支流で、上野の国に根を張りました。同じ吾妻郡の鎌原氏、西窪氏は同族です。信濃の真田氏も同族になります。 長... 続きをみる

  • 風摩小太郎

    北条氏五代100年間を通じて、陰で守って来たのが風摩小太郎率いる忍び集団です。 初代小太郎が早雲の陰となって働いて以来、首領は代々、小太郎を名乗り、北条家のために諜報活動を行なって来ました。 風摩小太郎とはどんな男だったのか? 一流の忍びなので、素性はまったくわかりません。早雲が伊豆に攻め込んだ時... 続きをみる

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  • 長野業政

    信濃守がいる限り、上野の国(群馬県)を攻め取る事は不可能だと武田信玄を恐れさせた武将が、箕輪城主の長野信濃守業政(なりまさ)です。 業政は関東管領の上杉氏に従って、西上野の旗頭として活躍していました。12人の娘たちを有力武将に嫁がせて、「箕輪衆」と呼ばれる強靭な組織を作りました。 天文21年(15... 続きをみる

  • 飯篠長威斎

    武神を祀っている鹿島神宮と香取神宮には古くから武術が伝わっていました。その二つの武術をまとめて体系付け、『天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)』と称したのが飯篠長威斎(いいざさちょういさい)です。 長威斎が生まれたのは元中4年(1387年)で、亡くなったのは長享2年(1488)だと伝... 続きをみる

  • 小笠原源信斎

    小笠原源信斎は遠江の国、高天神城主だった小笠原氏の一族で、奥山休賀斎の弟子になって神陰流(神影流)を学びます。 今川家の家臣でしたが、永禄12年(1569年)に今川家が没落した後、徳川家康に従って高天神城を守ります。 天正2年(1574年)、武田勝頼に攻められて高天神城が落城した後は武田家に従いま... 続きをみる

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  • 柳生石舟斎

    上泉伊勢守の高弟の1人で、新陰流の正統を継ぎました。大和の国、柳生の庄の豪族で、本名は柳生新左衛門宗厳といいます。 宗厳は新当流と富田流を極めて、畿内では有名な武芸者でした。関東から上泉伊勢守が来たと聞いて、田舎侍を簡単に倒してやろうと意気込んで出掛けますが、逆に敗れてしまいます。腕の差を思い知っ... 続きをみる

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  • 丸目徹斎

    上泉伊勢守の高弟の1人で、肥後の国(熊本県)、人吉に生まれ、本名は丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)といいます。 幼い頃より武術の修行を積んで、武者修行の旅に出て、負け知らずの強さでしたが、京都で、上泉伊勢守に完敗して弟子入りします。丁度、伊勢守が京都に道場を開いた永禄7年(1564年... 続きをみる

  • 20.月見酒

    「今晩は思いっきり飲むわよ。飲んで飲んで飲みまくって、あなたを困らせてやるわ」とお鶴は酒の用意をしながら楽しそうに言った。 「お鶴、完成したぞ」  五郎右衛門はお鶴と一緒に暮らし始めて以来、夜になるとお鶴の像を彫っていた。 「まあ、素敵。あたしが観音様になったのね」  お鶴は自分の像を抱きながら嬉... 続きをみる

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  • 18.お鶴と横笛

     五郎右衛門が木剣を構えて、空(クウ)を睨んでいると、「五右衛門さ~ん」とお鶴が帰って来た。  大きな風呂敷包みを背負い、酒を抱えながら川にかかった丸木橋を渡って来た。 「疲れちゃった」とお鶴はハァハァ言いながら笑った。 「何じゃ、それは」  五郎右衛門は風呂敷包みを木剣で突っついた。 「あたしの... 続きをみる

  • 13.昔話とお鶴

    「昔々‥‥‥」とお鶴は酔いにまかせて話を始めた。  焚き火の側にたっぷりと藁を敷いて、二人は戯れながら酒を飲んでいた。  五郎右衛門が藁束を全部ほぐしてしまった事を怒ったら、お鶴は平気な顔をして、お寺から貰ってくればいいじゃないと言った。  五郎右衛門はお鶴と一緒に山寺に行った。山寺はお鶴の言った... 続きをみる

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  • 12.抜けがら座禅

     五郎右衛門は一睡もせずに座り続けた。  お鶴は五郎右衛門の前で、持って来た酒を一人で全部、飲み干すと、時々、訳のわからない寝言を言いながら、気持ちよさそうに朝までぐっすりと眠った。  目を覚ますと焚き火を燃やし、座り込んでいる五郎右衛門に向かって、「お馬鹿さん、おはよう」と言い、五郎右衛門が返事... 続きをみる

  • 9.傷だらけのお鶴

     次の日の朝、五郎右衛門はお鶴に起こされるまで、ぐっすりと眠っていた。  お鶴は五郎右衛門の体の上にまたがり、筋肉の盛り上がった胸を撫でていた。 「朝か」と五郎右衛門は目を開けると聞いた。 「わかんない」とお鶴は首を振って、五郎右衛門の体の上に上体を倒した。  五郎右衛門は優しく、お鶴を抱きしめた... 続きをみる

  • 7.焚き火を囲んで 1

     焚き火の火が揺れている。  岩屋の中で五郎右衛門とお鶴は酒を飲んでいた。  お鶴が持って来たローソクがあちこちに灯され、岩屋の中は昼間のように明るかった。 「こういう所で飲むお酒も、また格別だわね」  お鶴は新しい藁束(ワラタバ)の上に座って、ニコニコしていた。 「わしはこの酒、飲んだ事あるぞ」... 続きをみる

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  • 6.お鶴と岩屋

     次の日の朝、朝稽古を終えて、岩屋の前で朝飯を食べている時、お鶴はやって来た。  昨日とは違って、やけに派手な着物を着ていた。昨日は喪服のせいか、寂しそうな感じだったが、今日は華やいでいる。昨日よりも若々しく見え、派手な着物がよく似合っていた。着物いっぱいに梅の花が咲き乱れ、うぐいすが飛び回ってい... 続きをみる

  • 4.岩屋観音 2

     観音様はゆっくりと近づいて来て、武芸者の隣に来て座ると、刀を押さえるように武芸者の手にさわった。その手の感触は滑らかで柔らかく、以外にも暖かかった。 「いや」と武芸者は首を振り、刀から手を放すと両目をこすった。  寝不足がたたって、幻覚を見ているのじゃろうか。木像が動き、しゃべる位なら、まだ、症... 続きをみる

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  • 1.からっ風が吹き抜けた

     上州名物のからっ風が吹いていた。  頬に突き刺さる冷たい風が音を立てて、砂ぼこりを舞い上げた。その砂ぼこりの中、街道に面した空き地に人だかりができている。道行く旅人たちが足を止め、声をひそめて見守っているのは二人の武士だった。  二人の武士は木剣を構えて立ち合っていた。  風に乗って、時折、笛や... 続きをみる

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  • 陰流の太郎(愛洲移香斎)と念流の松阿弥の決闘

    「陰の流れ 第二部・赤松政則 22.松阿弥2」より太郎(愛洲移香斎)と松阿弥の決闘  雨の中、決闘は始まった。  山伏姿の太郎は刀を中段に構えて松阿弥を見ていた。  松阿弥は杖に仕込んであった細く真っすぐな剣を胸の前に、刀身の先を左上に向け、斜めに構えていた。  お互いに、少しづつ間合いを狭めて行... 続きをみる

  • 風摩党の山伏、風雷坊の台詞

    「摩利支天の風~若き日の北条幻庵 3.箱根権現」より風雷坊の台詞 箱根権現に入れられた菊寿丸(幻庵)は海実僧正から、お前の父親(早雲)は極悪人の人殺しだと言われます。そんな事は信じられず、真相を確かめるために、父親のいる韮山城へと向かいますが、山の中で道に迷って風摩党の山伏、風雷坊に助けられ、その... 続きをみる

  • 北条氏政

    小田原北条氏四代目の当主が氏政です。父親は北条氏康、母親は今川氏親の娘です。 氏政は次男でしたが、兄の新九郎が二十歳前後で亡くなってしまったために跡継ぎになりました。 17歳の時、北条家と武田家が同盟を結び、氏政は武田信玄の長女(黄梅院)を嫁に迎えます。当時、黄梅院はまだ12歳でした。 永禄2年(... 続きをみる

  • 戦国大名の年齢差

    関東を舞台に合戦に明け暮れた北条氏康、武田信玄、上杉謙信の年齢を比べてみますと、氏康は1515年生まれ、信玄は1521年生まれ、謙信は1530年生まれです。 最初の川中島合戦があった天文22年(1553年)、謙信は24歳、信玄は33歳でした。信玄から見れば、謙信は小憎らしい若造といった感じだったで... 続きをみる

  • 西行法師

    ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月の頃 この歌で有名な西行(さいぎょう)法師は元永元年(1118年)に生まれました。平清盛と同い年で、源頼朝より29歳年上です。 出家前の名は佐藤義清(のりきよ)といい、藤原秀郷の九代目の子孫です。 鳥羽院の北面の武士でしたが、23歳の時に出家... 続きをみる

  • 馬天ヌル(馬天ノロ)

     尚巴志(しょうはし)の叔母の馬天(ばてぃん)ヌルは、先代の馬天ヌルが亡くなった時、島添大里(しましぃうふざとぅ)のサスカサヌルから教えを受けるように言われます、しかし、若く自惚れも強かった馬天ヌルは、先代からすべてを教わったので、これ以上、学ぶものなど何もないと思って、教えを受けませんでした。 ... 続きをみる

  • 木崎宿と木崎音頭

    日光例幣使道の木崎宿は飯盛女という女郎が大勢いた事で有名でした。 国定忠治が処刑される五年前の弘化2年(1845年)には旅籠屋が29軒あって、飯盛女は183人もいたそうです。越後から売られて来た娘が多かったようです。 吉田屋という旅籠屋におとらという飯盛女がいて、忠治のお気に入りでした。忠治が捕ま... 続きをみる

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  • 百々村の紋次親分

    国定一家の忠次親分も当然の事ながら、最初から親分だったわけではなく、子分時代がありました。 絹糸市が開かれて栄えていた日光例幣使道の境宿の隣に百々(どうどう)村という村があって、そこで「百々一家」を張っていた紋次親分がいました。忠次は大前田栄五郎の紹介で紋次の子分になります。 紋次親分は百々村の裕... 続きをみる

  • 蔦屋重三郎

    蔦屋重三郎は「蔦重」と呼ばれ、喜多川歌麿や東洲斎写楽を売り出した版元として有名です。 寛延3年(1750年)の正月、吉原の遊廓内で生まれた蔦重は二十代の半ば頃、吉原の大門前に小さな本屋を開業して、「吉原細見」と呼ばれる遊廓の案内書を売り始めます。 安永9年(1780年)頃から、黄表紙や洒落本、狂歌... 続きをみる

  • 鎌原観音堂

    鎌原村は浅間山の北麓にある山村ですが、信州街道と沓掛道が鎌原村で交わっていたため、江戸時代は交通の要衝として栄えていました。 信州街道は大戸通りとも呼ばれ、中山道の高崎の城下から分かれて、下室田、三ノ倉、大戸の関所を通り、本宿、須賀尾、万騎峠を越え、狩宿の関所を通って鎌原へと来ます。鎌原から大笹の... 続きをみる

  • 天明三年の浅間山大噴火

    今から240年余り前の天明3年(1783)、群馬県と長野県の境にそびえる浅間山が大噴火を起こしました。 その年の4月9日(旧暦)から始まって、何度も大きな噴火を繰り返し、7月8日に大爆発しました。北麓の群馬県側にある鎌原村は一瞬のうちに土石流と火砕流に埋もれてしまい、466人の村人が生き埋めになり... 続きをみる

  • 今川義忠

    駿河の国(静岡県)の守護大名、今川氏は足利将軍家の一族です。足利義氏の子、長氏が吉良姓を名乗って吉良氏の祖となり、長氏の次男、国氏が今川姓を名乗って今川氏の祖となります。国氏の孫の範国が駿河の守護となって、代々、駿河の守護職に就いています。 義忠は国氏から数えて8代目の当主で、26歳の時に家督を継... 続きをみる

  • お菊(甲斐御前)

    お菊は武田信玄の娘で、お松(信松尼)の妹です。姉のお松ほどではないにしろ、母親の油川殿に似て美人だったようです。 父の信玄が本願寺と同盟を結んだ時、お菊と伊勢長島の顕証寺顕忍との婚約が決まりました。お菊が8歳、顕忍は10歳でした。 ところが4年後、婚約者の顕忍は織田信長に攻められて戦死してしまいま... 続きをみる

  • 真田一徳斎

    真田昌幸の父親、一徳斎幸隆は信濃の国、真田郷に生まれますが、天文10年の5月、29歳の時に武田信虎らに攻められて故郷を追われます。5歳の信綱と生まれたばかりの昌輝、他にも女の子がいたかもしれませんが、幼い子供たちを連れて、故郷を離れなくてはなりませんでした。 その事件の一月後、信虎は息子の晴信に追... 続きをみる

  • 草津温泉の領主、湯本三郎右衛門

    湯本善太夫の跡を継いだ三郎右衛門は善太夫の甥です。 13歳の時、父親は戦死してしまいます。本来なら長男の三郎右衛門が父の跡を継ぐはずでしたが、若過ぎるために、父親の弟が跡を継ぐ事に決まってしまいます。 悔しい思いをした三郎右衛門でしたが、翌年の春、思いもよらない幸運が舞い降りてきます。お屋形様の善... 続きをみる

  • 戦国時代の草津温泉

    草津温泉は源頼朝から姓と家紋を授かったという湯本氏が代々領主として温泉を守って来ました。 記録によると明応4年(1495)に太田の金山城主、横瀬成繁が300人の供を連れて湯治に来たとあります。当時、300人を収容できる宿屋があったようです。 文亀2年(1502)には連歌師の宗祇と宗長が越後から来て... 続きをみる

  • 太田道灌

    江戸城の創始者として有名な太田道灌(どうかん)は文武両道の名将でした。 数々の伝説も生まれて、特に『山吹の里』の話は有名です。 ある日、鷹狩りに出掛けた時、俄か雨が降って来て、農家に立ち寄った若き日の道灌は、蓑(みの)を貸してくれと頼みます。出て来たのは美しい娘でしたが何も言わずに、ただ一輪の山吹... 続きをみる

  • 北条氏綱

    小田原北条氏の二代目を継いだ氏綱は通称は父親と同じ、新九郎です。生まれたのは文明18年(1486年)で、この時、父親の伊勢早雲は京都にいて幕府に仕えていました。一旦は幕府を辞めて、駿河の国に住み着いていたのですが、甥の今川氏親の家督を幕府に認めてもらうために、再び、幕府に仕えていたようです。母親は... 続きをみる