10.とぼけた和尚
いい天気だった。
昨日、積もった雪が光って眩しかった。
下界ではもうすぐ、桜の咲く時期なのだが、山の中はまだまだ寒かった。
五郎右衛門は今日も飽きずに木剣を振っていた。新陰流、猿飛(エンピ)の太刀の形(カタ)を繰り返し繰り返し稽古していた。
昨日は相当まいったとみえて、今朝、お鶴は来なかった。五郎右衛門は木剣を振りながらも、お鶴の事が気になっていた。
楽しそうなお鶴の笑顔‥‥‥傷だらけになって、ふくれているお鶴の顔が思い出され、五郎右衛門はつい吹き出してしまう。
これではいかん、と、お鶴の事を断ち切るように木剣を振っても、お鶴の事が頭から離れなかった。夢のようなあの夜の出来事が鮮明に思い出され、五郎右衛門の手は止まり、呆然と立ち尽くした。
小川を誰かが歩いて来る音がした。お鶴が来た、と思って五郎右衛門は振り返った。
お鶴ではなかった。分厚い綿入れを着込んだ坊主頭だった。坊さんが裾まくりして、杖(ツエ)を肩にかついで、こっちに向かって来た。お鶴が世話になっている山寺の和尚に違いない。
和尚はニコニコしながら側まで来ると、じっと五郎右衛門の顔を見つめた。太く垂れ下がった眉毛の下の目はとぼけていたが、その顔には厳しい修行の跡が刻まれていた。
「ホッホッホウ」と言いながら和尚は杖を突き、五郎右衛門の回りを一回りして、五郎右衛門を上から下まで、じっと眺めた。
お鶴の言った通り、ちょっと変わった和尚のようだった。
「成程、うむ、成程のう‥‥‥お鶴が惚れるのも無理ないわい」と和尚は満足気に何度もうなづいた。
五郎右衛門は木剣を下ろすと、「お鶴さんは大丈夫ですか」と聞いた。
「なに、あの女子はそんなやわじゃない。今は痛い痛いと騒いどるが、明日になれば、ケロッと元気になるじゃろう」
五郎右衛門もそう思っていた。明日になれば、また、斬り掛かって来るに違いない。
「ちょっと、お鶴に頼まれてのう。おぬしを斬って来いって言われたんじゃ」
和尚は杖に両手を乗せて、五郎右衛門を見上げ、笑っていた。
五郎右衛門は和尚の杖に注目した。刀が仕込んであるのかとよく見たが、ただの黒光りした年期の入った杖だった。
「わしを斬る?」
「なに、坊主は殺生(セッショウ)はせん。ちょっと、おぬしの顔を見に来ただけじゃ。お鶴の話じゃと、おぬし、悟りとかを捜しておるそうじゃな。悟りを捜すのは坊主だけかと思ったが、殺し屋稼業にも必要とみえるの」
「わしは殺し屋ではない」
五郎右衛門は右手を振った。
「似たようなもんじゃ。人斬り包丁など振り回しておるのは人を殺すためじゃろ」
和尚は杖で五郎右衛門の腰の脇差を示した。
「違う」
「悟るなどと無駄な事はやめて、さっさと山を下りた方がおぬしのためじゃ」
「わしが何をしようとわしの勝手じゃ」
五郎右衛門は和尚を無視して、立ち木に向かって木剣を構えた。
「そりゃそうじゃがの。無駄じゃと思うがの」
「無駄ではない」と五郎右衛門は立ち木を打った。
木の上から雪が落ちて来て、二人の回りに舞った。
「今のおぬしの剣は完全に死んどるのう」と和尚は笑った。
五郎右衛門は木剣を構えたまま和尚を睨んだ。
「今のおぬしの剣では、わしのような坊主でさえ斬れんじゃろう」
和尚は五郎右衛門に近づくと顔を近づけて木剣を眺めた。
「わしの剣は、そんなへなへな剣ではない」
五郎右衛門は木剣を引いた。
「試してみるかな」
和尚は五郎右衛門を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「わしは坊主を斬る剣など持ってはおらん」
五郎右衛門は和尚を無視した。
「喝(カツ)!」と和尚は杖で五郎右衛門の頭を打とうとした。
五郎右衛門はその杖を木剣で受け止めた。
「どうじゃな。わしを打ってみる気になったかな。立ち木よりは、わしの方が手ごわいぞ」
「よかろう。それ程、叩かれたいと申すなら、叩いてくれるわ」
五郎右衛門と和尚は二間程離れて立った。五郎右衛門は木剣を清眼(セイガン)に構えた。対する和尚は右手に持った杖を突いて立っているだけだった。
「構えろ!」
「わしは坊主じゃ。剣の構えなど知らん。遠慮せずにかかって来い」
生意気な、くそ坊主め!
軽く、小手でも打ってやるかと思った。が、なぜか、打ち込む事ができなかった。和尚を見ても隙だらけだ。しかし、打ち込む事ができない。こんな事は初めてだった。目の前の和尚が、やたらと大きく見えてきた。
五郎右衛門は木剣を中段の清眼から上段に振りかぶった。それでも、どうする事もできない。まるで、金縛りにあったかのように、足を動かす事さえできなかった。
しばらく、二人は石のように動かず、向かい合っていた。
「どうじゃな」と和尚が声を掛けた。
「くそっ、負けた‥‥‥」と五郎右衛門は木剣を下ろした。
「わからん‥‥‥なぜじゃ。なぜ、わしは打ち込めなかったんじゃ」
五郎右衛門は足元の泥を見つめた。
和尚は五郎右衛門に近づきながら、「おぬしの心は何かに囚(トラ)われておる」と言った。
五郎右衛門は顔を上げて和尚を見た。
「何かに囚われている?」
和尚はうなづいた。
「だから、わしを打つ事もできん。多分、今のおぬしは自分の剣に疑問を持っているんじゃろう。剣術というのは人を殺すための技術じゃ。ところが、おぬしは、その人を殺すという事に疑問を持った。そうじゃないかな」
「確かに、そうかもしれん」と五郎右衛門はまた、うなだれた。
「難しいのう」と和尚は言った。
五郎右衛門は顔を上げると和尚を見つめた。
和尚は杖の上に両手を乗せ、静かな顔付きで遠くを眺めていた。半ば白くなった顎髭(アゴヒゲ)が風に揺れていた。
「和尚は一体、何者なんです」
「わしはただの禅坊主じゃ」
和尚はそう言ったが、偉い和尚に違いないと五郎右衛門は思い始めていた。
「少々、生臭(ナマグサ)じゃがのう。お鶴から聞いておるじゃろう」
「和尚、わしは一体、どうしたらいいんじゃ」
五郎右衛門は和尚に救いを求めた。この和尚なら問題を解決する糸口を見つけてくれるに違いないと信じ切っていた。
「そうじゃのう」と和尚は首の後ろを掻いた。「まず、お前の体に染み付いている新陰流をすっかり忘れる事じゃな」
「新陰流を忘れる?」
和尚の言った言葉があまりにも以外だったので、五郎右衛門は戸惑った。
「そうじゃ。木剣振るべからず、座禅すべし。飯食うべからず、座禅すべし。眠るべからず、座禅すべし」
そう言うと和尚は背中を丸めて、スタコラと帰って行った。
『新陰流を忘れろ』とは、どういう意味なのか五郎右衛門にはわからなかった。