無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

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    永禄2年(1559年)、九州から京都に上ったヴィレラ司祭はその年の末、革の棚に住んでいた後家さんの世話になり、翌年の1月は玉倉町に移り、さらに四条烏丸の酒屋に移ります。 仏教の盛んな京都でひどい目に会いながらも、何とか、将軍足利義輝に会う事ができ、砂時計を土産に布教の許可を得ます。6月に四条坊門姥... 続きをみる

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  • 本願寺蓮如

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  • 木下藤吉郎

    木下藤吉郎というのは豊臣秀吉の若い頃の名前です。37歳の頃、羽柴姓に改めるまで、木下姓を名乗っていました。 木下というのは藤吉郎の実の父親の姓です。実の父親は武士で、藤吉郎が幼い頃に戦死しました。母親はお茶坊主だった筑阿弥と一緒になって、藤吉郎を育てます。 藤吉郎が生まれた頃、那古野城には今川氏が... 続きをみる

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    「陰の流れ 第一部・陰流天狗勝 22.多気の都1」より太郎と倉田無為斎の試合  太郎(愛洲移香斎)と無為斎は木剣を構えた。  太郎は中段、無為斎は下段だった。  無為斎は下段に構えるといっても、構える風ではなく、ただ、木剣を持っているだけという感じだった。隙だらけだった。  太郎は中段に構えたまま... 続きをみる

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    高峰三枝子 - 湖畔の宿 (1940) 「湖畔の宿」は佐藤惣之助さん作詞、服部良一さん作曲、歌う映画スターと言われた高峰三枝子さんが歌って、昭和15年5月にコロムビアから発売されて大ヒットしました。 やがて、厳しい戦況となり、女々しくて感傷的な歌だと発売中止となってしまいますが、人々は歌い続けます... 続きをみる

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  • 石川五右衛門

    大盗賊の石川五右衛門が実在して、釜茹での刑にあったのは事実です。しかし、どんな人物だったのかは定かではありません。 盗賊だったからには一流の忍びの術を心得ている者に違いないと思われ、伊賀にある石川村の出身なのだろうと言われています。 何を盗もうとして捕まったのかわかりませんが、時の権力者、豊臣秀吉... 続きをみる

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    吉乃(きつの)は生駒蔵人家宗の娘です。生駒蔵人は灰と油を商う商人でありながら、武士でもありました。輸送のための人足を多く抱え、各地から集まって来た浪人者なども居候していたようです。 木曽川流域の野武士集団を率いていた蜂須賀小六も出入りしていて、商人たちの警固に当たっていました。豊臣秀吉も木下藤吉郎... 続きをみる

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    「陰の流れ 第三部・本願寺蓮如 17.早雲庵」より早雲庵の正月  駿府から一山越えた石脇の早雲庵にも正月はやって来ていた。早雲庵の正月は、これといって普段と余り変わりないが、それでも何となく、みんな浮き浮きしていた。早い話が、正月だというのに行く所もない連中がゴロゴロしているのだった。  早雲は狭... 続きをみる

  • 三浦道寸

    三浦道寸は相模守護の扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の生まれですが、7歳の時に守護代の三浦高時の養子になります。15歳の時に元服して、三浦新介義同(よしあつ)を名乗ります。 三浦家の跡継ぎとして、戦でも活躍しますが、義同が34歳の時、男子のなかった養父に長男、駒若丸が生まれます。養父は駒若丸を可愛がり、... 続きをみる

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    第32軍直属の陸軍病院は熊本の陸軍病院において編成されました。病院長は広池軍医中佐で、那覇の開南中学校に本部が置かれました。 10月10日の空襲で本部のあった開南中学、外科のあった済生会病院、兵舎として使用していた第二中学も皆、破壊されて、南風原の国民学校に移動します。 翌年の2月、師範学校女子部... 続きをみる

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    生田万(よろず)は享和元年(1801年)、上州館林藩士の長男に生まれ、23歳の時に江戸に出て、国学者の平田篤胤の門人になります。 文政11年(1828年)10月、藩政改革の意見書を提出しますが、それが藩主の怒りに触れて、館林藩から追放されてしまいます。再び江戸に出て、篤胤のもとで4年間暮らしてから... 続きをみる

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    豊臣秀吉が若かった頃、カブキ者というのが流行っていました。 人と変わった目立つ格好をして、奇抜な行動を取る事をカブくと言って、カブいている者をカブキ者と呼んでいました。 戦国乱世が生んだ一つの風潮で、明日の事はわからない、今がよければそれでいい。今を精一杯生きている証として、目立つ格好をして、人並... 続きをみる

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    於祢(おね)の実の父親は岩倉の織田伊勢守の家臣だった林弥七郎です。 於祢が11歳の時、岩倉城は織田信長に攻められ、父親は戦死してしまいます。於祢は父親の親友だった浅野又右衛門の養女となります。主家が滅び、又右衛門は浪人となりますが、弓矢の名人だったので、信長に召抱えられます。 16歳の春、木下藤吉... 続きをみる

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    茶の湯の開祖、村田珠光(じゅこう)も一休門下の変わり者と言えるでしょう。 奈良に生まれて幼い頃より寺に入れられますが、20歳の頃、破門になって寺を追い出されます。 諸国を放浪して回り、25歳の頃、京都に草庵を立てて南星庵と号して落ち着きますが、何をしていたのかわかりません。道行く人たちにお茶を点て... 続きをみる

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    一休和尚の父親は後小松天皇ではないかと伝えられていますが、はっきりとわかりません。母親は南朝の遺臣の娘のようです。6歳の時に出家して、安国寺に入ります。その時の名は周建です。 17歳の時に西金寺の謙翁宗為に師事して、名を宗純と改めます。21歳の時、師の謙翁が亡くなってしまい、思い詰めて自殺をします... 続きをみる

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    仁科五郎は武田信玄の五男です。母親は油川殿で、お松(信松院)、お菊(甲斐御前)の同腹の兄です。 11歳の時に信濃の名族、仁科氏の名跡を継いで、仁科盛信を名乗り、仁科郷の森城主になります。 五郎が17歳の時、父親の信玄が亡くなり、すぐ上の兄、四郎勝頼が跡を継ぎます。 五郎は常に宿敵である越後の上杉謙... 続きをみる

  • 織田信忠

    織田信長の長男、信忠は幼名を奇妙丸といいます。24歳だった信長の最初の子供で、奇妙な顔をしていたので、そう名付けたのか、父親になった事が奇妙に思えたのかわかりませんが、感じたままを名前に付けました。 母親は正室の斎藤道三の娘ではなく、側室の生駒氏の娘、吉乃だったようです。 16歳になった時、下の二... 続きをみる

  • 武田勝頼

    勝頼は武田信玄の四男です。母親は信玄に滅ぼされた諏訪氏の姫様で、かなりの美貌だったようです。勝頼を産んだ時、姫はまだ16歳で、信玄は22歳でした。 勝頼が10歳の時に母親は25歳の若さで亡くなってしまいます。17歳の時に元服して、諏訪四郎勝頼を名乗ります。信濃の国を我が物にしようと企んでいる信玄に... 続きをみる

  • 北条幻庵

    幻庵は北条早雲の四男です。 生まれたのは明応二年で、その年、父の早雲は伊豆の国を攻め取り、今川家から独立して、戦国大名としての道を歩み始めます。 幼名は菊寿丸といい、幼い頃より喝食として箱根権現に入れられます。 当事の箱根権現は大勢の山伏や僧兵を擁して多大な領地と武力を持っていました。相模の国に進... 続きをみる

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  • 樋口太郎兼重

    樋口太郎兼重は木曽義仲の四天王の1人だった樋口次郎兼光の子孫で、念流を開いた慈恩の高弟の1人です。 兼重から子の兼定と念流は受け継がれますが、孫の高重はなぜか、鹿島の神道流を学び、以後、念流は途絶えてしまいます。 高重の時に信州の伊那郡樋口村から上州の吾妻郡小宿村に移ります。55年間、小宿村に住ん... 続きをみる

  • 目次

    針ヶ谷夕雲(はりがやせきうん)は陰流(かげりゅう)の流れを汲みながら、無住心剣流を編み出した江戸時代初期の剣豪です。 自分の剣術に疑問を持った夕雲は山奥の岩屋に籠もって、独り、厳しい修行に励みます。そこで出会ったお鶴という不思議な女性とのふれあいによって、少しづつ悟りを開いて行き、ついに剣禅一致の... 続きをみる

  • 真田一徳斎幸隆の台詞

    「戦国草津温泉記 湯本善太夫 8.真田一徳斎」より真田一徳斎幸隆の台詞 永禄三年(1560年)の春、真田幸隆が鎌原宮内少輔と共に湯本善太夫を訪ねて草津に来ます。幸隆は武田晴信の被官になって先鋒を務め、信濃の国を平定するために活躍していました。去年、お屋形の晴信が法体になって信玄と号したのにならって... 続きをみる

  • 飯縄山の山伏、東光坊の台詞

    「戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門 3.真田郷」より飯縄山の山伏、東光坊の台詞 草津温泉の領主、湯本善太夫の養子になって、跡継ぎになるために修行を積んでいた三郎は惚れていた北条家の娘に振られ、何もかもやる気をなくしてしまいます。 武術師範の山伏、東光坊はそんな三郎を真田郷に連れて行き、三郎の実の父親... 続きをみる

  • 黒岩長左衛門の台詞

    「天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記 37.七月二十五日」より黒岩長左衛門の台詞 7月25日(旧暦)は鎌原村の諏訪神社のお祭りの日でした。例年、この日は村芝居が行なわれ、今年も村人たちは芝居の稽古に励んでいました。ところが、7月8日(旧暦)、浅間山の大噴火で村は埋まってしまい、大勢の村人が亡くなって... 続きをみる

  • 古河公方 足利成氏

    関東の武士たちをまとめるために、足利尊氏が倅の基氏をかつて幕府のあった鎌倉の地に派遣したのが鎌倉公方の始まりです。基氏の子孫が代々公方を継いでいます。 四代目の持氏の時、五代将軍の義量がわずか19歳で亡くなり、六代将軍を決める前に、四代将軍だった義持も亡くなってしまいます。義持には義量の他には男子... 続きをみる

  • 西村勘九郎

    西村勘九郎は幼い頃に京都の妙覚寺に入れられ、法蓮坊を名乗って日蓮宗の修行を積みますが、23歳の頃、還俗して松波庄五郎を名乗ります。 26歳の頃、油商人奈良屋又兵衛の娘に惚れて婿に入ります。何年かして屋号を山崎屋に変えますが、随分と繁盛したようです。娘も生まれて、商売もうまく行っていたのに、32歳の... 続きをみる

  • 三好日向

     尚巴志(しょうはし)の武術師範を誰にするかを考えた時、まず、浮かんだのは神道流(しんとうりゅう)の流祖の飯篠長威斎(いいざさちょういさい)でした。しかし、長威斎は尚巴志よりも15歳も年下でした。  次に、念流(ねんりゅう)の慈恩(じおん)を調べると、尚巴志よりも二十歳位、年上でした。年齢的には丁... 続きをみる

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    尚巴志(しょうはし)の妻は伊波按司(いーふぁあじ)の娘です。 伊波按司は沖縄本島中部の伊波グスクの城主です。以前は北部の今帰仁(なきじん)グスクの城主の息子でしたが、羽地(はにじ)按司に攻められてグスクを奪われてしまいます。何とか逃げのびて伊波の山中に隠れていた所を村人に助けられ、伊波にグスクを築... 続きをみる

  • 屋蔵大主

    屋蔵大主(やぐらうふぬし)は尚巴志(しょうはし)の曾祖父です。 父親は沖縄本島南部の与座按司(よざあじ)で、兄の島尻大里(しまじりうふざとぅ)按司に攻められて戦死してしまいます。屋蔵大主は追っ手を逃れて伊平屋(いへや)島にたどり着きます。伊平屋島出身の家臣の手引きがあったのかもしれません。 我喜屋... 続きをみる

  • 佐銘川大主

    佐銘川大主(さめがわうふぬし)は尚巴志(しょうはし)の祖父です。 1330年頃、伊平屋(いへや)島で生まれます。父親は屋蔵(やぐら)大主、母親は我喜屋(がんじゃ)ノロです。 父親の屋蔵大主は隣の伊是名(いぜな)島も支配下に置き、長男の佐銘川大主を伊是名島に配置します。 ある年、飢饉となり、佐銘川大... 続きをみる

  • 尚巴志

    尚巴志(しょうはし)は沖縄の戦国時代を制して、沖縄を統一した英雄です。 1372年に沖縄本島南部の佐敷(南城市)で生まれています。その頃、日本は南北朝時代で、室町幕府の将軍は足利義満でした。 尚巴志の父親は苗代大親(なーしるうふや)、母親は美里之子(んざとぅぬしい)の娘です。父親の苗代大親はやがて... 続きをみる

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    ラバウル小唄(南洋航路) - 歌詞付き - 昭和19年 テレビもなく、ラジオが唯一の情報源だった戦時中、流行歌の歌詞を変えて歌うのが、結構、流行っていたようです。 「同期の桜」は西城八十作詩の「二輪の桜」の替え歌で、「ラバウル小唄」は若杉雄三郎作詩の「南洋航路」の替え歌です。両方とも、元歌よりも替... 続きをみる

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    ひめゆりの生徒たちの手記に必ずといっていいほど出て来るのが上原婦長です。優しく、強く、働き者で、その上、美人の上原婦長は生徒たちに慕われ、患者たちに頼りにされ、兵隊たちからも一目置かれた、尊敬すべき女性でした。 上原婦長は1919年、糸満に生まれました。17歳の春、看護婦養成所に入って、一年後に看... 続きをみる

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    上州の草津温泉は江戸時代の初期まで真田家の家臣だった湯本家の支配地でした。 湯本家は鎌倉時代より代々草津の領主として、草津の湯を守って来ました。戦国時代の領主だった湯本善太夫は武田信玄に仕えて、長篠の合戦で戦死しています。善太夫の跡を継いだのが湯本三郎右衛門で、真田昌幸の家臣となって活躍します。三... 続きをみる

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  • 長尾伊玄

    長尾伊玄は入道する前は長尾四郎右衛門尉景春といって、管領上杉氏の家宰を勤める長尾景信の長男に生まれます。越後の長尾氏出身の上杉謙信とは同族です。 景春が31歳の時、上杉軍の中心になって活躍していた父親が陣中で亡くなってしまいます。景春が家督を継ぐはずでしたが、上杉家の老臣たちの評定の結果、家宰職を... 続きをみる

  • 無外流 辻月丹

    辻月丹は慶安2年(1649年)に近江の国、甲賀に生まれます。13歳の時に京都に出て山口流の山口卜真斎の門に入って、26歳の時に印可を得ます。 甲賀に帰った月丹は岩尾山や油日岳に籠もって厳しい修行を重ねた後、江戸に出て道場を開きます。 厳しすぎる教えで道場は流行りませんが、月丹はさらに心の修行をする... 続きをみる

  • 一刀流 伊藤一刀斎

    伊藤一刀斎は天文19年(1550年)に伊豆の大島に生まれたと伝えられますが、確証はありません。 大島から泳いで伊豆に渡った一刀斎は三島大社の床下に住みついて、富田(とだ)一放という武芸者を倒し、越前に赴いて富田(とだ)流の富田勢源の弟子、鐘捲自斎の弟子になって印可を得ます。さらに鎌倉の鶴岡八幡宮に... 続きをみる

  • 疋田栖雲斎

    新陰流の流祖、上泉伊勢守の高弟で、伊勢守の甥に当たります。晩年に栖雲斎(せいうんさい)と号しますが、本名は豊五郎景兼といいます。虎伯とも号しました。 父親は疋田主膳景範といい加賀の国(石川県)、倉月庄疋田郷の郷士で、本願寺の有力門徒でもあります。母は伊勢守の姉だと伝えられています。 幼い頃から叔父... 続きをみる

  • 17.老いぼれ猫の境地

     お鶴は元気になった。  五郎右衛門はお鶴が寝ている間は木剣を手にする事なく、彼女の看病と座禅だけに熱中していた。  座禅の中で、ひたすら自分を殺していた。 「御免なさいね。あなたの修行を台なしにしちゃったわね。すみませんでした」  お鶴は両手をついて頭を下げた。顔色もすっかり、よくなっていた。 ... 続きをみる

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  • 風摩砦の女師範、茜の台詞

    「摩利支天の風~若き日の北条幻庵 11.桔梗1」より風摩砦の女師範、茜の台詞 愛洲移香斎に命じられて風摩砦の武術師範代になった菊寿丸(後の北条幻庵)は一年間の修行を終えた若い修行者たちを送り出します。その時、女師範の茜が、「時には若い師範も必要かもしれないわね」と菊寿丸に言いいます。 「はい。いい... 続きをみる

  • 浮世絵師、歌川貞利の台詞

    「国定忠次外伝・嗚呼美女六斬 第1部 美人例幣使道 9.嗚呼美女六斬」より歌川貞利の台詞 国定忠次の子分、保泉(ほずみ)の久次郎がお政を連れて浮世絵師、歌川貞利の家に遊びに行った時、貞利は艶本を描くために、裸のお万を逆さ吊りにして、真剣な顔をして絵を描いていました。 お万も貞利のために、そこまでや... 続きをみる

  • 喜多川月麿の台詞

    「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし 1.通油町」より喜多川月麿の台詞 戯作者の十返舎一九の家に、浮世絵師の喜多川月麿が飛び込んで来て、昔に惚れた深川(辰巳)の芸者、夢吉が上州の草津の湯にいるので、草津に行こうと一九を誘います。 当時、一九は「東海道中膝栗毛」が売れて、有名な作家になっていました。月麿... 続きをみる

  • 馬方の頭、半兵衛の台詞

    「天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記 33.七月十六日」より馬方の頭、半兵衛の台詞 天明3年(1783年)7月8日、浅間山の大噴火で鎌原村は埋まってしまい、助かった人々は大笹宿で避難生活を送ります。 噴火から8日後の16日、村の様子を見に行った問屋の若旦那だった市太たちは、そのありさまを見て呆然とし... 続きをみる

  • 夢庵肖柏の台詞

    「陰の流れ 第四部・早雲登場 17.五条安次郎」より夢庵肖柏の台詞 今川家の武士を辞めて連歌師になろうと決心した五条安五郎(後の宗長)は甲賀の飛鳥井屋敷にいる種玉庵宗祇を訪ねます。そこで出会ったのが、宗祇の弟子になろうとしていた夢庵(牡丹花)肖柏です。夢庵の茶室に掛かっている一休禅師の墨蹟を眺めな... 続きをみる

  • 120年前の草津温泉

    120年前といえば明治時代になりますが、その頃も湯畑を中心に草津温泉は湯治場として栄えていました。 明治の頃、旅館は一等、二等、三等、四等、五等とランク付けされていたようです。 草津温泉で一等旅館は、望雲館、一井、日新館、大東館、長善館、山本館の6つでした。望雲館は今のホテル望雲、長善館は大坂屋で... 続きをみる

  • 葛山氏広

    伊勢(北条)早雲の三男、氏広は駿河の国の駿東郡に勢力を持っていた葛山(かづらやま)氏の養子になります。葛山氏は母親の実家で、跡継ぎに恵まれなかったため、婿養子に入ったようです。 氏広は中務少輔と称して、永禄6年(1563年)まで生きて、73歳の長寿を全うしますが、詳しい事はわかりません。 伊豆の国... 続きをみる

  • 北条綱成

    北条綱成は小田原北条氏二代氏綱の娘婿です。 父親は今川家の武将福島(くしま)正成で、父親が戦死した後、北条氏綱を頼って小田原に来ます。なぜ、今川家を離れて、北条家を頼ったのかはわかりません。もしかしたら、福島家内で家督争いが起こり、身の危険を感じた正成の家臣が、当時7歳だった綱成を連れて小田原に行... 続きをみる

  • 北条氏康

    北条氏康は早雲の孫で、氏綱の長男です。幼名は伊豆千代丸といい、永正12年(1515年)、小田原城で生まれます。 氏康が生まれた時はまだ伊勢氏を名乗っていて、祖父の早雲は84歳でしたが健在でした。氏康が生まれた翌年、早雲は三浦道寸の籠もる新井城を落として、相模の国を平定します。 氏康が5歳の時に、祖... 続きをみる

  • 渓斎英泉

    渓斎英泉は退廃的な婀娜(あだ)っぽい、粋な美人画を描いた浮世絵師です。 寛政3年(1791年)、江戸星ケ岡に池田政兵衛の子として生まれ、善次郎と名付けられます。6歳の時、母親が亡くなり、翌年、父親は後妻を迎えます。 12歳の時、狩野白珪斎に師事して絵を学びます。 15歳の時、元服して、安房北条の水... 続きをみる

  • 護佐丸

    護佐丸(ごさまる)は尚巴志(しょうはし)のために戦い続けた戦国武将です。 父親は山田按司で、曾祖父は今帰仁按司(なきじんあじ)でした。曾祖父の敵(かたき)を討って、今帰仁グスクを奪い返すために、幼い頃から武芸に励みます。 護佐丸という名は死後に贈られた名前か、生存中にヌルに名付けられた神名かわかり... 続きをみる

  • 勝連按司

    勝連(かちりん)グスクの城主、勝連按司(あじ)は古くから日本との交易をしていたようです。 近くの泡瀬干潟でタカラガイが採れ、それを目当てに遠く日本から商人たちがやって来ました。その取り引きをした者たちが富を守るために築いたのが勝連グスクの始まりでしょう。 やがて、ヤコウガイやホラ貝の取り引きも始め... 続きをみる

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  • 察度

    察度(さとぅ)は浦添(うらしい)グスクの城主で、初めて明国(みんこく)皇帝から冊封(さっぷう)を受けて琉球中山王(ちゅうざんおう)になります。丁度、尚巴志(しょうはし)が生まれた1372年に明国から琉球(沖縄)に使者が来ました。 父親は奥間大親(うくまうふや)で、母親は天女だったそうです。1321... 続きをみる

  • リリー・マルレーン

    【ドイツ語】リリー・マルレーン (Lili Marleen) (日本語字幕) 「リリー・マルレーン」は第二次世界大戦中、ドイツ人の歌手、ララ・アンデルセンが歌って、ドイツ兵だけでなく、敵のイギリス兵たちの間にも大流行した歌です。 ラジオからこの曲が流れると敵も味方も攻撃を中止して、歌に耳を傾け、遠... 続きをみる

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  • 新雪

    新雪 昭和17年 (唄 灰田勝彦) 作詞 佐伯孝夫 作曲 佐々木俊一 「新雪」は月丘夢路さん主演の大映映画「新雪」の主題歌で、佐伯孝夫さん作詞、佐々木俊一さん作曲、灰田勝彦さんが歌って昭和17年8月にビクターから売り出されて大ヒットしました。 ハワイ生まれの灰田勝彦さんは俳優としても活躍し、「新雪... 続きをみる

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  • 蘇州夜曲

    Soshu Yakyoku 蘇州夜曲 1 - 李香蘭 「蘇州夜曲」は西条八十さん作詞、服部良一さん作曲、渡辺はま子さんと霧島昇さんが歌って、昭和15年8月にコロムビアから売り出されて大ヒットしました。 この曲は、李香蘭さん主演の映画「支那の夜」の主題歌として作られ、映画の中では李香蘭さんが歌ってい... 続きをみる

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  • 愛国行進曲

    愛国行進曲 愛国行進曲は昭和12年に一般公募して生まれた歌で、レコード会社が競って売り出し、国民の心を捉えて100万枚を突破する大ヒットになりました。 国民学校や中学校、女学校で行進する時には必ず、この曲が使われました。 作詞者は鳥取県の23歳の青年、森川幸雄さんで、詞が決まってから作曲の方も公募... 続きをみる

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  • 戦時中の流行歌

    昭和12年7月、日中戦争が始まって、その年の9月、「露営の歌」が大ヒットします。「勝って来るぞと勇ましく~」という歌です。 翌年の13年2月に「愛国行進曲」が大ヒット、4月には「日の丸行進曲」がヒットします。「露営の歌」も「愛国行進曲」も「日の丸行進曲」も一般から歌詞を募集して、作曲家が曲を付けま... 続きをみる

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  • 戦時中の物価

    戦時中の貨幣は200円札(文様)、100円札(聖徳太子)、20円札(藤原鎌足)、10円札(和気清麿)、5円札(菅原道真)、1円札(竹内宿禰)、50銭札(富士山と桜)、10銭札(八紘一宇)、5銭札(楠正成)と10銭ニッケル貨、10銭アルミ銅貨、5銭ニッケル貨、1銭銅貨がありました。 アンパンが5銭、... 続きをみる

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  • 沖縄守備軍・第32軍

    昭和19年3月、沖縄守備軍・第32軍が新設されます。それまでの沖縄は小規模な砲兵部隊がいくつか駐屯するだけの無防備状態でした。 その年の7月にサイパン島が玉砕すると、第32軍も強化されて、大陸(中国)から精鋭部隊が集まって来ます。司令官は渡辺中将から牛島中将に替わり、参謀長も北川少将から長少将に替... 続きをみる

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  • 沖縄の鉄道、ケービン

    米軍が上陸した昭和20年の4月まで、沖縄には鉄道が走っていました。 軽便(けいべん)鉄道という小型の蒸気機関車で、那覇を基点に北は嘉手納まで、東は与那原まで、南は糸満まで走っていて、「ケービン」と呼ばれて親しまれていました。 大正3年(1914)、那覇から与那原までが開通し、大正11年に、那覇から... 続きをみる

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  • 十・十空襲

    フィリピンのレイテ島を攻略する作戦を立てた米軍は、日本軍に邪魔されないように沖縄の軍事基地を前もって破壊しようと考えます。 昭和19年10月10日、晴れ渡った早朝の6時40分、米軍機が編隊を組んで那覇上空に現れて、小禄飛行場(現在の那覇空港)と那覇港に爆弾を落とします。 突然の事で、那覇の人々は敵... 続きをみる

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  • ずいせん学徒隊

    戦後、ずいせん学徒隊と呼ばれるようになった県立首里高等女学校は首里の桃原町にありました。 明治30年創立の女子工芸学校が、昭和18年に県立女学校になります。昭和の初め頃まで、首里城内の御殿を校舎として使っていたようです。 昭和19年の夏頃から首里高女は軍の被服工場になって、生徒たちは毎日、軍用の蚊... 続きをみる

  • 木枯し紋次郎

    だれかが風の中で 木枯し紋次郎 笹沢左保原作の「木枯し紋次郎」は1972年正月から中村敦夫主演でテレビドラマ化されて、大ヒットしました。 「あっしには関わりがねえこって」が流行語になり、長い楊枝を口にくわえるのが流行りました。私も紋次郎に憧れて、中山道を歩いたりもしました。 小説の「木枯し紋次郎」... 続きをみる

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  • 国定忠治の仕置場

    国定忠治が関所破りをした大戸の関所跡から南に500m程行くと忠次の仕置場跡(処刑場跡)があります。 嘉永3年(1850年)12月21日、国定一家の親分、忠治は磔(はりつけ)刑に処せられました。 磔刑は主殺し、親殺し、関所破り、偽金銀を作った者、密通して夫を殺した女など、封建制度そのものの維持に重大... 続きをみる

  • 日光例幣使道

    日光例幣使道は中山道の倉賀野宿から日光壬生道の楡木宿までをつなぐ街道で、「例幣使」と呼ばれる朝廷の勅使が、徳川家康を祀る日光東照宮の大祭へ向かうために、毎年4月に通りました。 例幣使の一行は60人前後で、1647年から1867年まで、一度も中止される事なく続いたというから驚きです。1846年だけ、... 続きをみる

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  • 博奕打ちの世界

    博奕打ちの一家には親分、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居、そして、三下奴(さんしたやっこ)の身分がありました。 親分は貸元(かしもと)とも呼ばれ、縄張りを持って一家を張ります。 子分には親分と直々に盃を交わした手作りの子分、先代の子分でしたが、改めて、盃を交わした譲りの子分、よその一家から来て子分... 続きをみる

  • 国定忠治

    国定忠治は国定村の忠次郎の略で、本名は長岡忠次郎といいます。 先祖は新田義貞の家臣だったらしく、代々長岡姓を持っていました。身分は農民だったので、堂々と姓を名乗る事はできませんでしたが、国定村の名主を務めた事もある裕福な農民だったようです。 10歳の頃、父親を亡くして、村でも評判のガキ大将に育ち、... 続きをみる

  • 平兵衛池

    草津温泉から香草を通って、さらに山奥に入っていくと平兵衛池という静かな沼があります。 昔、草津温泉にあった湯本平兵衛という宿屋の十七歳になる美しい娘が五月の半ば頃、女中たちを引き連れてワラビ狩りに出掛けました。とある綺麗な沼のほとりで一休みした時、お嬢様は喉が渇いたので、水を飲もうと沼に近づきます... 続きをみる

  • 草津温泉の宿、湯本安兵衛

    草津温泉の湯本家は建久4年(1193年)、源頼朝から湯本の姓と三日月の家紋を授かったと伝えられています。 戦国時代には湯本善太夫が武田家の家臣となって草津温泉を守りますが、長篠の合戦で戦死してしまいます。善太夫の跡を継いだ三郎右衛門は真田昌幸に仕えて、草津温泉を守ります。 江戸時代には真田家の重臣... 続きをみる

  • 為永春水

    為永春水(ためながしゅんすい)は人情本「春色梅暦」の作者として有名です。 人情本というのは洒落本から発達した読物で、婦女子向けの恋愛小説です。当時、女性向けの読物は少なく、春水の人情本は大いに受けました。 寛政2年(1790年)に生まれた春水は20代の半ば頃、越前屋長次郎を名乗って貸本屋を始めます... 続きをみる