無住心剣流・針ヶ谷夕雲の人気ブログ記事
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陰流の太郎(愛洲移香斎)と神道流の倉田無為斎の試合
「陰の流れ 第一部・陰流天狗勝 22.多気の都1」より太郎と倉田無為斎の試合 太郎(愛洲移香斎)と無為斎は木剣を構えた。 太郎は中段、無為斎は下段だった。 無為斎は下段に構えるといっても、構える風ではなく、ただ、木剣を持っているだけという感じだった。隙だらけだった。 太郎は中段に構えたまま... 続きをみる
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「義経千本桜」のいがみの権太
いがみは歪みの事で、心が歪んでいる悪者を意味します。今ではあまり聞きませんが、昔はワルガキの事を権太(ごんた)と呼んでいたようです。いがみの権太というのは、心のひねくれたワルガキという意味です。 今でも歌舞伎で上演される「義経千本桜」はもともとは人形浄瑠璃の名作です。1747年の11月に大坂の竹本... 続きをみる
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織田信長の側室、吉乃
吉乃(きつの)は生駒蔵人家宗の娘です。生駒蔵人は灰と油を商う商人でありながら、武士でもありました。輸送のための人足を多く抱え、各地から集まって来た浪人者なども居候していたようです。 木曽川流域の野武士集団を率いていた蜂須賀小六も出入りしていて、商人たちの警固に当たっていました。豊臣秀吉も木下藤吉郎... 続きをみる
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国定忠次と有名な侠客たち
大親分と呼ばれた大前田栄五郎は寛政5年(1793年)生まれですから、忠次より17歳年長です。 「天保水滸伝」で有名な笹川の繁蔵は文化7年(1810年)生まれで、忠次と同い年です。八丈島送りになった津向の文吉も忠次と同い年です。 清水の次郎長は文政3年(1820年)生まれですので、忠次より10歳も若... 続きをみる
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秀吉が憧れたカブキ者
豊臣秀吉が若かった頃、カブキ者というのが流行っていました。 人と変わった目立つ格好をして、奇抜な行動を取る事をカブくと言って、カブいている者をカブキ者と呼んでいました。 戦国乱世が生んだ一つの風潮で、明日の事はわからない、今がよければそれでいい。今を精一杯生きている証として、目立つ格好をして、人並... 続きをみる
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真田一徳斎幸隆の台詞
「戦国草津温泉記 湯本善太夫 8.真田一徳斎」より真田一徳斎幸隆の台詞 永禄三年(1560年)の春、真田幸隆が鎌原宮内少輔と共に湯本善太夫を訪ねて草津に来ます。幸隆は武田晴信の被官になって先鋒を務め、信濃の国を平定するために活躍していました。去年、お屋形の晴信が法体になって信玄と号したのにならって... 続きをみる
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飯縄山の山伏、東光坊の台詞
「戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門 3.真田郷」より飯縄山の山伏、東光坊の台詞 草津温泉の領主、湯本善太夫の養子になって、跡継ぎになるために修行を積んでいた三郎は惚れていた北条家の娘に振られ、何もかもやる気をなくしてしまいます。 武術師範の山伏、東光坊はそんな三郎を真田郷に連れて行き、三郎の実の父親... 続きをみる
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沖縄陸軍病院第一外科 上原貴美子婦長
ひめゆりの生徒たちの手記に必ずといっていいほど出て来るのが上原婦長です。優しく、強く、働き者で、その上、美人の上原婦長は生徒たちに慕われ、患者たちに頼りにされ、兵隊たちからも一目置かれた、尊敬すべき女性でした。 上原婦長は1919年、糸満に生まれました。17歳の春、看護婦養成所に入って、一年後に看... 続きをみる
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関東取締出役と道案内
八州廻りとか八州様とか呼ばれる関東取締出役(しゅつやく)が設置されたのは文化2年(1805年)6月の事です。 関東の国々は幕府の直轄領(天領)、旗本領、藩領、寺社領がモザイクのように入り乱れていて、支配者の違う他領に逃げ込んだ犯罪者を逮捕する事ができませんでした。特に上州(群馬県)は細切れ状態にな... 続きをみる
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国定忠治の愛妾、お町
国定忠治が捕まった時、一緒にいたのは妾のお町でした。 お町は国定村の隣村の田部井(ためがい)村に生まれ、忠治とは同い年です。 父親は尾内(おない)市太夫といい、お町が幼い頃に亡くなったようです。庄八という兄がいて、博奕打ちになって、尾内の嘉藤太(かとうた)と呼ばれ、身代を潰してしまいます。お町が六... 続きをみる
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織田信長の都、安土城下
天正4年(1576)、織田信長は琵琶湖のほとりの安土に新しい城の建設を始めます。岐阜城を長男の信忠に譲り、仮宿所に移って自ら指揮を執ります。 城の建設に伴って、様々な人たちが安土に集まって来て、城下町も形成され、何もなかった地が、日本中で最も注目される都に変身して行きます。 安土城の天主が完成した... 続きをみる
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戦国時代の善光寺如来様
長野県の善光寺の御本尊、阿弥陀如来様は戦国時代、武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦に巻き込まれて、しばらく旅に出ておりました。 天文22年(1553年)8月、第一回目の川中島合戦の時、上杉謙信は善光寺の仏像と仏具の一部を奪い取って越後の府中に移します。この時は御本尊の阿弥陀如来様は無事でした。 弘治... 続きをみる
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草津温泉の領主、湯本善太夫
上野の国(群馬県)の草津温泉は鎌倉時代より湯本氏が代々領主として守っていました。室町時代、上野の国は関東管領の上杉氏の支配下にあったので、湯本氏も管領に従い、草津温泉も安全でした。 京都で応仁の乱が始まった頃、関東でも、鎌倉にいた公方様(足利氏)と公方様を補佐する管領の上杉氏が対立して、関東の武士... 続きをみる
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17.老いぼれ猫の境地
お鶴は元気になった。 五郎右衛門はお鶴が寝ている間は木剣を手にする事なく、彼女の看病と座禅だけに熱中していた。 座禅の中で、ひたすら自分を殺していた。 「御免なさいね。あなたの修行を台なしにしちゃったわね。すみませんでした」 お鶴は両手をついて頭を下げた。顔色もすっかり、よくなっていた。 ... 続きをみる
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風摩砦の女師範、茜の台詞
「摩利支天の風~若き日の北条幻庵 11.桔梗1」より風摩砦の女師範、茜の台詞 愛洲移香斎に命じられて風摩砦の武術師範代になった菊寿丸(後の北条幻庵)は一年間の修行を終えた若い修行者たちを送り出します。その時、女師範の茜が、「時には若い師範も必要かもしれないわね」と菊寿丸に言いいます。 「はい。いい... 続きをみる
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浮世絵師、歌川貞利の台詞
「国定忠次外伝・嗚呼美女六斬 第1部 美人例幣使道 9.嗚呼美女六斬」より歌川貞利の台詞 国定忠次の子分、保泉(ほずみ)の久次郎がお政を連れて浮世絵師、歌川貞利の家に遊びに行った時、貞利は艶本を描くために、裸のお万を逆さ吊りにして、真剣な顔をして絵を描いていました。 お万も貞利のために、そこまでや... 続きをみる
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馬方の頭、半兵衛の台詞
「天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記 33.七月十六日」より馬方の頭、半兵衛の台詞 天明3年(1783年)7月8日、浅間山の大噴火で鎌原村は埋まってしまい、助かった人々は大笹宿で避難生活を送ります。 噴火から8日後の16日、村の様子を見に行った問屋の若旦那だった市太たちは、そのありさまを見て呆然とし... 続きをみる
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120年前の草津温泉
120年前といえば明治時代になりますが、その頃も湯畑を中心に草津温泉は湯治場として栄えていました。 明治の頃、旅館は一等、二等、三等、四等、五等とランク付けされていたようです。 草津温泉で一等旅館は、望雲館、一井、日新館、大東館、長善館、山本館の6つでした。望雲館は今のホテル望雲、長善館は大坂屋で... 続きをみる
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沖縄守備軍・第32軍
昭和19年3月、沖縄守備軍・第32軍が新設されます。それまでの沖縄は小規模な砲兵部隊がいくつか駐屯するだけの無防備状態でした。 その年の7月にサイパン島が玉砕すると、第32軍も強化されて、大陸(中国)から精鋭部隊が集まって来ます。司令官は渡辺中将から牛島中将に替わり、参謀長も北川少将から長少将に替... 続きをみる
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沖縄の鉄道、ケービン
米軍が上陸した昭和20年の4月まで、沖縄には鉄道が走っていました。 軽便(けいべん)鉄道という小型の蒸気機関車で、那覇を基点に北は嘉手納まで、東は与那原まで、南は糸満まで走っていて、「ケービン」と呼ばれて親しまれていました。 大正3年(1914)、那覇から与那原までが開通し、大正11年に、那覇から... 続きをみる
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草津温泉の宿、湯本安兵衛
草津温泉の湯本家は建久4年(1193年)、源頼朝から湯本の姓と三日月の家紋を授かったと伝えられています。 戦国時代には湯本善太夫が武田家の家臣となって草津温泉を守りますが、長篠の合戦で戦死してしまいます。善太夫の跡を継いだ三郎右衛門は真田昌幸に仕えて、草津温泉を守ります。 江戸時代には真田家の重臣... 続きをみる
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