無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

2026年1月のブログ記事

  • 江戸時代の草津温泉

    上州の草津温泉は江戸時代の初期まで真田家の家臣だった湯本家の支配地でした。 湯本家は鎌倉時代より代々草津の領主として、草津の湯を守って来ました。戦国時代の領主だった湯本善太夫は武田信玄に仕えて、長篠の合戦で戦死しています。善太夫の跡を継いだのが湯本三郎右衛門で、真田昌幸の家臣となって活躍します。三... 続きをみる

  • 喜多川歌麿と艶本

    艶本(えほん)は枕絵とか、春本とか、わ印(わらい本)とか呼ばれています。 江戸時代、幕府に禁止されていた書物ですが、版元は裏に隠れて盛んに出版していました。それを描く浮世絵師も勿論、禁止されているのを承知で、腕によりを掛けて描いていました。 美人絵を描かせたら天下一品と言われる歌麿は当然のごとく、... 続きをみる

  • 山東京伝

    十返舎一九が活躍していた当時、江戸で一番有名な作家は山東京伝でした。 京伝に憧れて戯作者になった者も多く、一九を初めとして、「里見八犬伝」の曲亭馬琴も、「浮世風呂」の式亭三馬も、「自来也説話」の感和亭鬼武も皆そうです。 京伝は初め、絵師を目指して北尾重政の弟子になります。北尾政演の名で美人絵なども... 続きをみる

  • 十返舎一九

    十返舎一九といえば、映画「写楽」に出ていた片岡鶴太郎が演じた少しお調子者の一九を思い浮かべますが、実際の一九は生真面目な男だったようです。 生まれは駿河の国で、父親は駿府の奉行所に勤めていた武士で、本名は重田幾五郎です。 20歳の頃、江戸に出て、23歳の頃には大坂に移ります。武士になる事をやめて浄... 続きをみる

  • 喜多川月麿

    群馬県の草津温泉で一番古い旅館「日新館」のお食事処の飾り棚に三枚続きの浮世絵が飾ってあります。 江戸時代の日新館の座敷の様子を描いたもので、芸者風の女性が八人、水汲みの女性が一人、若旦那風の男が一人、風呂上りにくつろいでいます。煙草盆と水桶に「湯安」と書いてあり、当時、湯本安兵衛と名乗っていた日新... 続きをみる

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  • 鎌原観音堂

    鎌原村は浅間山の北麓にある山村ですが、信州街道と沓掛道が鎌原村で交わっていたため、江戸時代は交通の要衝として栄えていました。 信州街道は大戸通りとも呼ばれ、中山道の高崎の城下から分かれて、下室田、三ノ倉、大戸の関所を通り、本宿、須賀尾、万騎峠を越え、狩宿の関所を通って鎌原へと来ます。鎌原から大笹の... 続きをみる

  • 信州追分宿の飯盛女

    飯盛女とは宿場にいた下級娼婦の事です。宿場女郎とも呼ばれます。 浅間山の南側を通る中山道には軽井沢宿、沓掛宿(中軽井沢)、追分宿と三つの宿場があって、どこにも飯盛女はいました。中でも、追分宿の飯盛女が一番、評判がよかったようです。 追分宿には60数軒の旅籠屋があって、飯盛女のいる宿屋は50軒近くあ... 続きをみる

  • 大戸の加部安左衛門

    上州吾妻郡大戸村に代々、加部安左衛門を名乗る上州一の分限者がいました。みんなから加部安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。 初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。 三代目から加部姓を名乗ります。三代目から五代目までは八右衛門を名乗っていて、六代目から安左衛門を名乗ってい... 続きをみる

  • 「義経千本桜」のいがみの権太

    いがみは歪みの事で、心が歪んでいる悪者を意味します。今ではあまり聞きませんが、昔はワルガキの事を権太(ごんた)と呼んでいたようです。いがみの権太というのは、心のひねくれたワルガキという意味です。 今でも歌舞伎で上演される「義経千本桜」はもともとは人形浄瑠璃の名作です。1747年の11月に大坂の竹本... 続きをみる

  • 葛飾北斎

    「富嶽三十六景」で有名な北斎は、一般に「葛飾北斎」の名で親しまれていますが、色々な画号を使っています。 幼い頃は時太郎、元服してからは鉄蔵が本名です。 20歳の頃、役者絵で有名だった勝川春章の門人となって、勝川春朗の画号を貰います。時々、群馬亭や白山人可候を名乗る時もありますが、36歳頃までは春朗... 続きをみる

  • 天明三年の浅間山大噴火

    今から240年余り前の天明3年(1783)、群馬県と長野県の境にそびえる浅間山が大噴火を起こしました。 その年の4月9日(旧暦)から始まって、何度も大きな噴火を繰り返し、7月8日に大爆発しました。北麓の群馬県側にある鎌原村は一瞬のうちに土石流と火砕流に埋もれてしまい、466人の村人が生き埋めになり... 続きをみる

  • 柴屋軒宗長

    連歌師の宗長は駿河の国、島田の刀鍛冶、五条義助の次男に生まれ、武士として今川義忠に仕えます。 19歳の時、駿河に来た宗祇と出会い、連歌師に憧れます。宗祇に弟子にしてくれと頼みますが、断られました。 一時は連歌師の道を諦めて、武士として生きていましたが、25歳の時に、駿河にやって来た伊勢早雲と出会っ... 続きをみる

  • 種玉庵宗祇

    宗祇は連歌師の第一人者です。連歌会所奉行職を務め、連歌界の総元締のような立場にありました。 室町時代から戦国時代にかけて、武将の嗜みの一つに連歌がありました。 連歌とは数人が集まって句の詠み合いをする即興的な遊びで、まず、師匠格の人が発句と呼ばれる五・七・五の句を詠みます。次に、亭主格の人が脇句と... 続きをみる

  • 朝倉孝景

    朝倉孝景は越前守護の斯波氏の重臣の一人でした。 斯波氏が義敏と義廉で家督争いを始めると義廉方に付きます。 応仁の乱が始まると義敏は東軍となり、義廉は西軍となります。孝景は西軍の武将として京都で活躍します。ところが、文明3年(1471年)、孝景は突然、東軍に寝返ります。 将軍足利義政から密かに、東軍... 続きをみる

  • 蓮如の妻たち

    蓮如の布教に大いに役立ったのが、子供たちです。男の子は各地に飛んで、寺の坊主となり、蓮如の教えを広めて門徒たちの中心になります。女の子は有力寺院に嫁いで教団の結束を固めます。 その子供たちの数は、驚く事に27人もいます。男の子が13人、女の子が14人です。本願寺の法主として妾が何人もいたのだろうと... 続きをみる

  • 下間蓮崇

    下間蓮崇(しもつまれんそう)は蓮如上人が吉崎にいた頃の奏者です。奏者というのは取り次ぎ役で、蓮如の側近くに仕えていました。 越前の国に生まれた蓮崇は幼い頃に和田本覚寺の小僧になって心源と名乗ります。 15歳の時、本覚寺に来た如乗に連れられて加賀二俣の本泉寺に移ります。 25歳の時、本願寺の執事職を... 続きをみる

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  • 九十九茄子

    九十九(つくも)茄子は天下一の名物茶器といわれるお茶入れです。作物茄子、九十九髪茄子、付藻茄子と書かれる場合もあります。 南北朝時代の武将、佐々木道誉が室町幕府3代将軍足利義満に贈った唐物のお茶入れで、義満は大層気に入って常に身近に置いていたといいます。 その後、代々将軍家に伝わりましたが、8代将... 続きをみる

  • 信長の夢

    天正十年(1582年)の5月、絢爛豪華な安土城内で織田信長は悪夢にうなされます。 毎夜、同じ夢を見て、汗びっしょりになって真夜中に目を覚まします。 自分が何者かに殺され、子供たちも妻や側室たちも皆、無残に殺されて、天下を奪われる夢です。夢の中では、自分を殺す者が何者かわかって、くそ、おぬしなどにや... 続きをみる

  • 京都の南蛮寺

    永禄2年(1559年)、九州から京都に上ったヴィレラ司祭はその年の末、革の棚に住んでいた後家さんの世話になり、翌年の1月は玉倉町に移り、さらに四条烏丸の酒屋に移ります。 仏教の盛んな京都でひどい目に会いながらも、何とか、将軍足利義輝に会う事ができ、砂時計を土産に布教の許可を得ます。6月に四条坊門姥... 続きをみる

  • 天正10年(1582年)頃の物価

    織田信長が殺された頃の物価を調べてみますと、米1石が京都で1200~1500文、奈良では600~800文です。京都は奈良の倍近く、物価が高かったようです。 1石は10斗で、1斗は10升です。1石というのは一升瓶100本分という事です。銭1000文は1貫文といいます。 大豆1石が京都で1000~13... 続きをみる

  • 愛宕百韻

    明智光秀は本能寺の変の前に愛宕山に登り、威徳院で連歌会を催し、その時、有名な発句「ときは今天が下しる五月哉」を詠みます。 脇句は威徳院の住職、西之坊行祐が、「水上まさる庭の夏山」と詠み、第三句は連歌師の里村紹巴が「花落つる池の流れをせきとめて」と詠んでいます。 その他の参加者は愛宕山の僧侶あるいは... 続きをみる

  • 明智光秀

    明智光秀といえば、本能寺の変で織田信長を襲撃した事で有名ですが、なぜ、あんな事をしでかしたのか、未だに謎のままです。 光秀は美濃の斎藤道三に仕えますが、弘治2年(1556)4月、道三は倅の義竜に殺されてしまいます。5ヵ月後の9月、光秀のいた長山城も義竜に攻められて落城します。光秀は城から脱出して、... 続きをみる

  • 織田信長の都、安土城下

    天正4年(1576)、織田信長は琵琶湖のほとりの安土に新しい城の建設を始めます。岐阜城を長男の信忠に譲り、仮宿所に移って自ら指揮を執ります。 城の建設に伴って、様々な人たちが安土に集まって来て、城下町も形成され、何もなかった地が、日本中で最も注目される都に変身して行きます。 安土城の天主が完成した... 続きをみる

  • 石川五右衛門

    大盗賊の石川五右衛門が実在して、釜茹での刑にあったのは事実です。しかし、どんな人物だったのかは定かではありません。 盗賊だったからには一流の忍びの術を心得ている者に違いないと思われ、伊賀にある石川村の出身なのだろうと言われています。 何を盗もうとして捕まったのかわかりませんが、時の権力者、豊臣秀吉... 続きをみる

  • 塚原卜伝

    剣豪で名高い塚原卜伝は常陸の国(茨城県)の吉川家の次男に生まれます。吉川家は代々鹿島神宮の神職を務める名家でした。 武神を祀る鹿島神宮は古くから武術が盛んで、その武術は『鹿島の太刀』と呼ばれてました。卜伝も幼い頃から武術の修行を始めます。 10歳の頃、同じ神職を務める塚原家の養子となって、塚原新右... 続きをみる

  • 蜂須賀小六

    織田信長の父親、信秀に土地を奪われた蜂須賀小六は、母親の実家である丹羽郡宮後郷の安井家を頼ります。 宮後郷は尾張と美濃の国境を流れる木曽川の近くで、川並衆と呼ばれるどちらの国にも属さない荒くれ野武士たちが跋扈していました。早いうちから、津島の商人を通して鉄砲を手に入れていた小六は、鉄砲の力で川並衆... 続きをみる

  • 秀吉が憧れたカブキ者

    豊臣秀吉が若かった頃、カブキ者というのが流行っていました。 人と変わった目立つ格好をして、奇抜な行動を取る事をカブくと言って、カブいている者をカブキ者と呼んでいました。 戦国乱世が生んだ一つの風潮で、明日の事はわからない、今がよければそれでいい。今を精一杯生きている証として、目立つ格好をして、人並... 続きをみる

  • 豊臣秀吉の妻、於祢

    於祢(おね)の実の父親は岩倉の織田伊勢守の家臣だった林弥七郎です。 於祢が11歳の時、岩倉城は織田信長に攻められ、父親は戦死してしまいます。於祢は父親の親友だった浅野又右衛門の養女となります。主家が滅び、又右衛門は浪人となりますが、弓矢の名人だったので、信長に召抱えられます。 16歳の春、木下藤吉... 続きをみる

  • 織田信長の側室、吉乃

    吉乃(きつの)は生駒蔵人家宗の娘です。生駒蔵人は灰と油を商う商人でありながら、武士でもありました。輸送のための人足を多く抱え、各地から集まって来た浪人者なども居候していたようです。 木曽川流域の野武士集団を率いていた蜂須賀小六も出入りしていて、商人たちの警固に当たっていました。豊臣秀吉も木下藤吉郎... 続きをみる

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  • 木下藤吉郎

    木下藤吉郎というのは豊臣秀吉の若い頃の名前です。37歳の頃、羽柴姓に改めるまで、木下姓を名乗っていました。 木下というのは藤吉郎の実の父親の姓です。実の父親は武士で、藤吉郎が幼い頃に戦死しました。母親はお茶坊主だった筑阿弥と一緒になって、藤吉郎を育てます。 藤吉郎が生まれた頃、那古野城には今川氏が... 続きをみる