疋田栖雲斎
新陰流の流祖、上泉伊勢守の高弟で、伊勢守の甥に当たります。晩年に栖雲斎(せいうんさい)と号しますが、本名は豊五郎景兼といいます。虎伯とも号しました。
父親は疋田主膳景範といい加賀の国(石川県)、倉月庄疋田郷の郷士で、本願寺の有力門徒でもあります。母は伊勢守の姉だと伝えられています。
幼い頃から叔父の伊勢守に預けられて、新陰流の修行を積んで、上泉門下の四天王の1人と呼ばれます。
越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められて、上泉城が落城した後、伊勢守の供をして上洛の旅に出ます。大和の国(奈良県)、柳生の庄で柳生宗厳(後の石舟斎)と出会い、宗厳が伊勢守の弟子になった時、柳生に残って宗厳の指導に当たったのが豊五郎でした。
宗厳が伊勢守から印可を得てからは、師の伊勢守と別れて諸国修行の旅に出ます。
織田家に仕えて、信長の長男、信忠の武術指南役を勤めますが、織田家は滅びてしまいます。その後、豊臣家に仕えて、秀吉の養子、秀次の武術指南役になります。秀次が亡くなった後は九州へと行き、豊前(福岡県・大分県)の細川家に仕えます。さらに、筑前(福岡県)の黒田家、肥前(佐賀県・長崎県)の寺沢家にも仕えたようです。
一ヶ所に長く留まる事ができない性格らしく、その後も旅を続けて、最後には豊臣秀頼の大坂城内で亡くなりました。
慶長10年(1605年)9月30日、享年は80歳前後だったようです。
栖雲斎自身は新陰流を称していましたが、弟子の山田浮月斎によって疋田陰流と呼ばれるようになります。

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