無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

島添大里按司

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島添大里按司(しましぃうふざとぅあじ)の本拠地、島添大里グスクは馬天港と与那原港を見下ろす山の上にあります。「島添」とは島々を支配するという意味があり、島添大里按司はかなり古くから勢力を持っていた按司のようです。

初代の浦添按司(うらしいあじ)、舜天(しゅんてん)の母親は島添大里按司の娘だったと伝えられ、12世紀頃にはすでにかなりの勢力を持っていたようです。

13世紀になると舜天王統を滅ぼして浦添按司になった英祖(えいそ)が島尻大里(しまじりうふざとぅ)にグスクを築いて南部に進出して来ます。また、玉グスク按司も良港を持つ島添大里グスクを奪い取ろうと企んで、大(うふ)グスク糸数(いちかじ)グスクを築いて進出して来ます。

14世紀には英祖王統を滅ぼした察度(さとぅ)が島尻大里按司と同盟して、島添大里按司を攻めます。島添大里グスク攻めの先鋒となったのは島尻大里按司の弟、八重瀬按司(えーじあじ)です。八重瀬按司は新(あら)グスクを築いて隙を窺い、1380年頃、島添大里グスクを奪い取って、島添大里按司を名乗ります。

島添大里按司となった八重瀬按司はグスクを拡張して守りを固め、明国(中国)との交易も始めて「下の世の主」と呼ばれるまでに栄えます。勢いに乗った八重瀬按司は同族の島尻大里按司も滅ぼして、山南王(さんなんおう)となります。

八重瀬按司が島尻大里グスクに移った後、島添大里按司になったのは三男の屋冨祖(やふす)ではないかと思われます。八重瀬按司には三人の息子がいて、長男のタブチは本拠地の八重瀬グスクを守り、次男のシタルー豊見グスクを守っていました。三男の屋冨祖は次男のシタルーが豊見グスクを築いて、大グスクから移って行った後、大グスク按司となり、父親が島尻大里グスクに移った後に島添大里按司になったと思われます。

1400年頃、山南王になった八重瀬按司が亡くなり、跡を継いだのは次男のシタルーでした。シタルーは明国に留学した事もある秀才で、父親はシタルーに跡を託したのでしたが、それに不満を持った長男のタブチが反乱を起こします。兄弟で争いを始めたその隙に乗じて島添大里グスクを奪い取ったのは佐敷按司の尚巴志(しょうはし)でした。

尚巴志は本拠地を佐敷グスクから島添大里グスクに移して、島添大里按司を名乗ります。

島添大里按司となった尚巴志は勢力を広げながら周りの状況を見極め、1406年、中山王(ちゅうざんおう)の武寧(ぶねい)を攻め滅ぼします。本拠地を首里グスクに移しますが、自らは中山王とはならず、父親の思紹(ししょう)を中山王とします。

思紹の死後、中山王となった尚巴志が首里に移った後も、尚巴志の息子が島添大里グスクを守って南部に睨みをきかせていました。



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