無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

善太夫とナツメ、3年振りの再会

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戦国草津温泉記・湯本善太夫 4.雷鳴」より善太夫とナツメの3年振りの再会


 うっとおしい梅雨が過ぎて、夏真っ盛りの頃だった。

 箕輪の城下から来た武士の一行を見送って、一息ついていた頃、突然、『小野屋』の孫太郎が妹のナツメと一緒に山程の土産を持ってやって来た。

 善太夫北条方の商人である『小野屋』を宿に泊めていいものか迷ったが、孫太郎が伊勢の国から久々に関東にやって来たと言ったので、その事は知らない振りをして、いつもの馴染み客として迎える事にした。また、ナツメの笑顔を見て、断れるわけもなかった。

 三年振りの再会だった。

 冬になる度に、ナツメを捜しにに出掛けたが会う事はできなかった。縁がなかったのかと、半ば諦めかけている時だった。やはり、縁はあったのだと善太夫は飛び上がらんばかりの嬉しさだった。

 三年振りに見るナツメはもう一人前の女といえた。眩(まぶ)し過ぎる程、美しく、その笑顔に見つめられると、初めて会った時のように胸が高鳴るのを感じていた。

 前回と同じように奥の座敷に案内すると、孫太郎戦死した父親と叔父のお悔やみを述べた後、改まって頼みがあると言った。

そなたでなくてはできん事だ」と孫太郎は真剣な顔で善太夫を見つめた。

 隣でナツメもお願いしますと頭を下げた。

「わたしに頼みとは?」と善太夫はナツメから孫太郎に目を移すと聞いた。

「まず、小野屋の事だが、小野屋が北条氏と取り引きしている事は、そなたも存じておろう。うちが取り引きをしている武士は北条氏だけではないが、世間では北条氏の御用商人のように思っているようだ。その事については別に否定はせん。小野屋と北条氏との付き合いは古いからな。そこで問題が起きたんだ」

 孫太郎はそこで話をやめ、庭の方に目をやった。庭では番頭が水を撒いていた。

「そなた、愛洲移香斎(いこうさい)殿を御存じだな」と孫太郎は聞いた。

陰流(かげりゅう)の?」と善太夫は聞き返した。

 孫太郎はうなづいた。「その移香斎殿と北条氏との関係を御存じかな」

「いいえ、知りませんが」

「そうか。北条氏の初代に早雲寺(そううんじ)殿というお方がおられた。その早雲寺殿と移香斎殿は応仁の乱の頃、出会い、その後も友として付き合っていたそうじゃ。二代目の春松院(しゅんしょういん)殿(氏綱)移香斎殿より直々に陰流を習っておられた。三代目の今のお屋形様(氏康)も直々ではないが陰流を習っておられる。お屋形様が陰流を身に付けておられるので北条家中では陰流をやっている武士は多い。また、移香斎殿の御子息も北条氏に仕えておられた。今は孫の代になっているがの」

移香斎殿も北条氏に仕えておられたのですか」

「いや、移香斎殿は誰にも仕えてはおらん。初代早雲寺殿にとっては、掛け替えのない友であり、二代目春松院殿にとっては師匠であり、大事なお客人であったお人じゃ」

「そうだったのですか‥‥‥」

「うむ‥‥‥春松院殿は移香斎殿を小田原に迎えようとした。しかし、移香斎殿はお断りになって、名前を隠して、この地に住み、ここでお亡くなりになられた。移香斎殿は晩年、武芸を捨てて、かったい(癩病(らいびょう)患者)たちの治療に専念しておられた。大したお人じゃった」

「はい。その話は伺(うかが)っております」

「それと、もう一つ、移香斎殿がこの地でやっていた事があったんじゃ」

「もう一つ?」

「ああ。玉薬(たまぐすり)(火薬)の研究だ」

「玉薬?」

「そなたは鉄砲というものを御存じか」

「鉄砲? 河越の合戦の時、北条方が使ったという?」

「そうだ」

「見た事はありません。何でも、雷(かみなり)のような物凄い音のする武器だとか噂で聞いております」

「うむ。まあ、そんなような物だ。五年程前、薩摩(さつま)の国の種子島(たねがしま)に南蛮人(なんばんじん)が渡来した」

「南蛮人?」

明(みん)の国(中国)より、もっと遠い、海の向こうから、やって来た人だ。顔形も言葉も我々とまるで違う人たちだ」

薩摩の国(鹿児島県)に来たのですか」

「来たというより、台風にやられて種子島に流されたらしい。その南蛮人が最新式の鉄砲を持っていた。河越の合戦で北条氏が使ったのは、この種子島の鉄砲ではない。明の国から伝わった、もっと古い型の鉄砲だ。明の鉄砲はろくに玉があたらん。玉はあたらんが威(おど)しには使える。河越の時がいい例だ。敵は鉄砲の音に慌てふためいて、戦意を失い逃げ惑(まど)った。ところが、種子島の鉄砲は玉がちゃんと当たる」

「玉が当たる? 鉄砲とは玉が出るものなのですか」

 孫太郎はニヤッと笑うと、かたわらに置いてあった長い袋を手に持って、中身を出した。善太夫はてっきり、太刀でも出すのかと身を引いたが、中から出て来たのは、見た事もない鉄と木でできた杖(つえ)のような物だった。

「これが種子島の鉄砲だ」

 孫太郎はその鉄砲を善太夫に渡した。

 善太夫は手に取ってみたが、こんな物からどうやって雷のような音がするのか不思議だった。玉も出ると言っていたが、玉が出たからといってどうなるのか、まったく見当も付かなかった。




戦国草津温泉記 湯本善太夫
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善太夫とナツメ、運命の出逢い

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戦国草津温泉記・湯本善太夫 2.ナツメ」より善太夫とナツメの出逢い


 夏の終わりの頃だった。

 瑞光坊(ずいこうぼう、後の善太夫)は光泉寺の門前に立つ市からの帰り、湯治客を眺めながら、のんびりと歩いていた。

 草津には様々な客が訪れた。

 きらびやかに着飾った身分の高いお公家(くげ)さんや僧侶

 偉そうな髭(ひげ)をたくわえて、槍や薙刀(なぎなた)をかついだ、いかつい顔をした武士

 旅なれた山伏遊行聖(ゆぎょうひじり)。山伏は真言(しんごん)を唱え、遊行聖は念仏を唱えながら歩いている。

 あちこちから流れて来る遊女乞食(こじき)、旅芸人。鮮やかな着物に身を包んだ天女のように美しい遊女もいれば、乞食同然のボロをまとったお化けのような遊女もいる。

 時には武家の奥方が立派な輿(こし)に乗って、大勢の侍女(じじょ)を引き連れてやって来る事もある。

 身分も着ている物も様々だったが、草津に来ると皆、平等になったかのように、になってに入った。

 広小路には、御座(ござ)の湯綿(わた)の湯脚気(かっけ)の湯滝の湯と四つの湯小屋があるが、ほとんど、回りから丸見えだった。勿論、男女混浴で、皆、草津に来た解放感からか、何の抵抗もなくになっている。中には、湯から出て素っ裸のまま、広小路を歩いている者もいるが、誰も気にも止めない。

 草津は不思議な所だった。

 瑞光坊は初めて草津に来た時、裸の人たちを見て驚いたが、それよりも、色々な種類の人がいる事の方がもっと驚きだった。小雨村にいた頃、見た事もない違う種類の人々が草津には大勢いた。噂に聞くとは、こういう所なのかと驚いていた。

 草津は山の中の小さな村だったが、都とは言えないまでも、一種独特の華やかさを持った町だった。

 いつものように、湯池(湯畑)湯煙が立ち昇り、硫黄(いおう)の臭いが鼻を突く。

 いつものように、滝の湯には大勢の者が湯を浴びていた。

 道行く男たちが足を止めて、ニヤニヤしながら湯小屋を眺めている。

 毎日、この時刻になると、仕事前の遊女たちが大勢、湯を浴びにやって来ていた。

 遊女たちは見られているのを承知で、キャーキャー言いながら誇らしげに体を見せびらかしている。

 初めて、この光景を目にした時、瑞光坊は驚き、まるで極楽のような所だと、毎日のように眺めに来たものだった。最近はその光景にも慣れ、遊女たちとも顔見知りになったため、わざわざ、眺めに来る事もなくなったが、いつ見ても、いい眺めだと思った。

 瑞光坊が眺めていると遊女の一人が瑞光坊に向かって、「若様!」と叫んで、両手を振った。

 他の遊女たちも、「キャー、若様!」と身を乗り出して手を振っている。

 回りの男たちが、瑞光坊を見ながら囃(はや)し立てた。

 瑞光坊は軽く手を上げて答えると、その場を離れようとした。

 ところが、瑞光坊の目は遊女たちの後ろで、滝を浴びている一人の少女の裸身に釘(くぎ)付けになってしまった。この辺りでは見た事もない程、綺麗な娘だった。

 長い黒髪を両手でかき上げながら、湯の滝を浴びている。すらっとした体はまだ幼いが、やけに眩(まぶ)しく、見ているだけで胸がドキドキして来るのを感じていた。

 遊女たちが何かを言っていたが、そんなのは何も聞こえず、少女をじっと見つめていた。

 突然、少女の姿が見えなくなった。

 瑞光坊は市場で買った野菜も忘れ、やじ馬たちをかき分けて、滝の湯の入り口まで行ってみた。しかし、すでに、その少女の姿はなかった。まだ、近くにいるはずだと、広小路中捜してみたが見つからなかった。

 瑞光坊は肩を落として飄雲庵(ひょううんあん)に帰り、野菜を忘れた事を円覚坊に怒られた。

 次の日から、瑞光坊は毎日のように、その少女を捜し回った。

 地元の者ではない事は確かだった。湯治客に違いない。湯治客なら、どこかの宿に泊まっているはずだ。十二、三歳の少女がそんなにもいるはずはない。きっと見つかるはずだと思ったが、なかなか見つからなかった。裸の姿しか見ていないので、どんな身分の娘か分からない。身分が分かれば、それ相当の宿を捜せばいいが、それが分からないから大変だった。

 この前と同じ時間に滝の湯に行けば会えるだろうと行ってみたが、見つける事はできなかった。遊女たちに聞いても、そんな娘は知らないという。三日間、捜し回って見つからず、もう帰ってしまったのだろうと諦めざるを得なかった。




戦国草津温泉記 湯本善太夫
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連歌師宗長と一休禅師

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陰の流れ 第四部・早雲登場 24.一休禅師」より宗長と一休禅師


 安次郎(後の宗長)はまた、雲知弟子をしてくれと言って断られ、玄関の前に座り込んでいた。

 夕方になって、一休が現れ、また『何者じゃ』と聞いた。安次郎は前回と同じように、元駿河今川家家臣、五条安次郎忠長と答えた。一休の答えは前回と同じだった。それだけでなく、玄関の前に座られては邪魔だと水を浴びせられ、それでも動かずにいると、力づくで追い出された。

 安次郎は泥だらけになり、仕方なく、その夜は丘の下で夜を明かした。十月の末で寒かったが、安次郎は死に物狂いになって、震えながら一晩中、座り通していた。この夜程、夜明けが待ち遠しく、夜が長いと感じた事はなかった。次の日、安次郎は山に入って(しば)を集め、酬恩庵への階段の下に小さな小屋を立てた。それは本当に小さな小屋だった。人一人が座る事のできる程の小さな小屋で、安次郎はその中で、毎日、座っていた。

 夜が明けると酬恩庵に行って、弟子にしてくれと頼み、断られ、また、柴小屋に戻って座るという毎日が続いた。安次郎の事はすぐに村中の噂となり、珍しそうな顔して、毎日、見物人がやって来た。中には食べ物を施してくれる者もいて飢え死にだけはしなかった。

 三日目に、一休がお森と一緒にやって来て、柴小屋の中を覗き込み、「何者じゃ」と聞いた。

五条安次郎忠長です」と答えて、安次郎はハッと気づいた。

 一休は、そんな事を聞いているのではないという事がようやく分かった。一休が聞いたのは名前や肩書などではなく、もっと本質的なものであるという事を安次郎は気づいた。

 一休は、そんな者に用はないと言うと酬恩庵に戻って行った。

 安次郎は自分は一体、何者なのかを真剣に考え始めた。自分から名前も肩書も取ってしまったら、自分には一体、何が残るのだろうと考えた。もし、名前や肩書がなくなったとしても、自分というものが消える事はない。この消える事のない自分というものは、一体、何なのだろう。

 この村にいる者たちは自分の事を知らない。ある日、この村にやって来て、こんな所に小屋を立てて、毎日、座り込んでいる変わった男だと見ている事だろう。一体、今、ここに座っている自分とは何なのだろうか。

 禅僧ではない。勿論、連歌師でもない。今川家の武将でもない。

 今の俺は、人から飯を施してもらう、ただの乞食か。

 しかし、その乞食をしている自分というのは一体、何なのだ。

 安次郎は過去の事を色々と思い出して見た。安次郎は刀鍛冶(かたなかじ)の頭領である五条家に生まれた。父親は今川家のお屋形様を初めとして重臣たちの刀を鍛えていた。次男として生まれた安次郎は家を継ぐ事もなく、幼い頃より禅寺に通って読み書きを仕込まれ、十二歳の時、お屋形様の側に仕えた。それから、ついこの間まで武士として生きて来た。それが、今、こうして、乞食のような格好で、こんな所に座っている。武士として生きていた自分も本当なら、今、こうしている自分も本当の自分だった。自分とは一体、何なのだろうか。

 山崎屋六右衛門も心配して、時々、訪ねて来てくれた。そして、もう一人、毎日のように飯を運んでくれる老婆がいた。老婆はただ一言、頑張りなされ、と言って、握り飯を置いて行った。安次郎は今まで握り飯という物をこんなにも感激して食べた事はなかった。飯を食う事など、以前は当然の事だと思っていた。飯を食うという当たり前の事が、こんなにも嬉しい事だったとは考えた事もなかった。毎日、ただ座っているだけだったが、何となく、心が洗われるような新鮮な気持ちだった。というものが、何となく分かりかけて来たような気がした。

 また、三日後に、一休はやって来て、『何者じゃ』と聞いた。

分かりません」と安次郎は正直に言った。

自分が何者か分からんような奴に用はない」と言うと一休は去って行った。

 安次郎にも、ようやく、一休という禅師の大きさが分かりかけて来た。山崎屋が言っていたように、一休は海のように大きいという事を感じられるようになっていた。その事に気づいた安次郎は、本気で一休の弟子になろうと決めた。連歌の事は諦めてもいい、一休から本物の禅を教わろうと決心した。

 安次郎は山崎屋に頼んで、頭を剃って貰い、決心を固めると、改めて一休の『何者じゃ』という問いに取り組んだ。

 十一月になると夜の冷え込みは益々、増して行った。安次郎は、毎日、自分が何者なのかを座り込んで考えていた。

 夢庵(牡丹花肖柏)だったら何と答えるだろうか。

 寝そべったまま、ニヤッと笑って、わしは夢庵じゃ、と言うのだろうか。そうすると、一休は何と言うのだろう。

 やはり、夢庵などには用はない、と言うのだろうか。

 すると夢庵はまたニヤッと笑って、わしも用はない、と言うのか‥‥‥

 早雲だったら何と答えるだろうか。

 頭を撫でながら、早雲じゃ、と言うのか。 

 一休は早雲などには用がないと言い、早雲はどう答えるのか。

 安次郎には分からなかった。

 安次郎は夜空の星に聞いてみた。星はただ輝いているだけだった。

 目の前に生えているに聞いてみた。草はただ、そこにいるだけだった。

 また、三日後に、一休は来て『何者じゃ』と聞いた。

 安次郎は、「分かりません」と答えた。用はないと言って、一休は去って行った。

 安次郎には何と答えたらいいのか分からなかった。何と答えたら、一休は弟子にしてくれるのだろうか。名前ではない事は確かだ。「分かりません」でない事も確かだ。そうなると、ただの人とか、名もない男とか答えればいいのだろうか。

 安次郎は自分は何者か、を考えるよりも、何と答えたらいいのかを考え始めた。それは主客転倒だったが、安次郎は気づかなかった。あれこれと考えた末の答えは、『自然の一部である人間の一人』というものだった。安次郎はこの答えなら大丈夫だろうと、三日後、一休に自信を持って答えた。一休の返事は安次郎の思い通りにはならなかった。

「ほう、自然の一部か、それなら、そのまま、そこにずっといろ。いつの日か、望み通りに土になれるだろう

 考えて、考えたあげくの返事がそれだった。安次郎は、もう、どうにでもなれと、考える事をやめた。自分は自分でしかない。他の何者でもなく、自分なんだ。あれこれ、考える必要はない。今、座っている、この姿以外に自分というものはない

 一休の問いに囚(とら)われ過ぎていた事に気づいた安次郎は、もう、自分が何者かを考える事をやめてしまった。もう、ずっとこのまま乞食のままでも構わないと開き直った。開き直ってみると、何だか、急に楽になった。自分が本当に自由の身になったように感じられた。何にも縛(しば)られない、本当の自由の身になれたような気がした。

 今川家をやめて旅に出て以来、自由の身になったつもりでいたが、それは本当の自由ではなかった。連歌師にならなければならないという思いが一杯で、せっかく旅に出たのに何も見てはいなかった。上(うわ)の空で、ただ歩いていただけだった。様々な景色を見ていたはずなのに何も思い出す事ができなかった。

 安次郎は初めて、目というものの不思議さに気づいた。見えるという事と見るという事は違うという事に気づいた。誰でも目を開ければ何かが見える。見えるからといっても、必ずしも見ているわけではなかった。やはり、見ようとしなければ何も見る事はできないのだった。安次郎は変な事に気づいたものだと、小屋から出ると、改めて回りの景色を眺めて見た。今まで、自分がどんな所に座っていたのか知っているつもりでいたが、改めて、回りを見回してみて気づかない事が色々と見つかった

 不思議な気持ちだった。今まで、自分は何を見ていたのだろうと思った。駿河にいた頃も、こんな風に漠然と物を見ていたに違いなかった。三十年も生きて来て、ろくに物を見ていなかったとは自分が情けなく思えた。もしかしたら、目だけではないのかもしれない。耳も鼻も口も五感といわれている物を、今まで充分に使っていなかったような気がして来た。せっかく持って生まれた物を充分に使わないのは、勿体ない事をして来たものだと思った。反面、その事に気づいた事の喜びもあった。安次郎は景色を楽しみ、心に焼き付けると、また、小屋の中に戻って座り続けた。

 目を閉じると、安次郎はじっと耳に澄ましてみた。色々な音が耳に入って来た。風の音、鳥の鳴き声、虫の鳴き声らが快い音として耳に入って来た。そして、柴の匂い、草の香り新鮮に感じられた。ただ、自分の着ている着物の臭さが気になって来た。一度、気になると、もう溜まらなかった。今まで、全然、気にならなかったのに臭くて溜まらなかった。安次郎は木津川の河原に飛んで行くと、そのまま川の中に飛び込んだ。水は冷たかったが気持ちよかった。

 なぜか、嬉しかった。理由は分からないが自然と笑いが込み上げて来て、安次郎は一人、水浴びをしながら笑っていた。まるで、子供の頃に戻ったかのように、水の中で遊んでいる事、それだけで楽しかった。こんな気分になるのは本当に久し振りのような気がした。

 今までずっと、武士という枠の中で生きて来た。常に、人の目を気にして生きて来た。やりたい事があっても回りの目を気にして、できなかった。自分でありながら、それは自分ではなかった。五条安次郎というのは、こういう男だと、いつの間にかできてしまった枠の中で生きていた。武士である限り、その枠の中からはみ出す事は許されない事だった。ところが、今の安次郎にはその枠がなくなり、まったくの自由の身になっていた。何をしようと構わない。誰が見ていようと構わない。何をしても、俺は俺だった。

 安次郎は水の中で遊びながら、ふと、夢庵の事を思い浮かべた。夢庵は、今の安次郎と同じ境地で生きているに違いないと思った。いつも飄々としている夢庵は、まさしく、自由人だった。安次郎は夢庵を見直し、改めて、会いたいと思った。

 着物を洗って草の上に干すと、安次郎はずっと水の中で遊んでいた。そのうち、子供たちがやって来た。子供たちは初めのうちは、寒いのに川の中に入っている安次郎を馬鹿にしていたが、やがて、皆、川の中に入って来て、みんなで日が暮れるまで遊んでいた。

 三日後にまた、一休がやって来たが、安次郎は一休の事も忘れて、座ったまま眠っていた。

何者じゃ!」と一休は怒鳴った。

「はい」と安次郎は跳び起きた。

何者じゃ」と一休はもう一度聞いた。

ただの土くれです」と安次郎は答えた。

 考えた答えではなかった。その時、とっさに出て来た答えだった。

「とうとう、土くれになったか」

「はい」

「ただの土くれになるまで何日掛かった」

三十年

「三十年か、うむ、いいじゃろう。第一関門通過じゃ」

 安次郎は酬恩庵に迎えられた。




陰の流れ 愛洲移香斎 第四部 早雲登場
陰の流れ 愛洲移香斎 第四部 早雲登場

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早雲と一休禅師

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陰の流れ 第三部・本願寺蓮如 31.再会1」より早雲と一休禅師


 早雲は京を出ると、一休のいる薪(たきぎ)村(京都府田辺町)の酬恩庵(しゅうおんあん)に向かった。

 一休早雲の事を覚えていてくれた。しかし、教えを請う事はできなかった。一休はお森(しん)という盲目の女と一緒に暮らしていた。

 早雲は一瞬、目を疑った一休ともあろう禅師が女犯(にょぼん)を犯していた。早雲も一休の風変わりな行ないは知っていた。しかし、それは、今の禅宗の在り方を批判するための行動だと思っていた。まさか、実際に、女と一緒に暮らしているとは思ってもいなかった。

 早雲は、一休とお森という女のやり取りを見ながら、見なければよかったと後悔した。

 早雲はほんの少しの間、一休と話をしただけで酬恩庵を後にした。

 一休を見損なった、と思った。

 昔はあんな人ではなかった、と思った。

 一休の禅こそ、本物だと信じていた。

 一休は、どうして、あんな風になってしまったのだろう。

 早雲は歩きながら考えていた。考えながら、本物の禅とは一体何なんだろう、と思った。

 女と一緒に暮らせば、禅者ではなくなるのだろうか。

 禅とは、そんなものではないはずだった。

 禅とは何か、という答えを見つけるため、早雲はもう一度、酬恩庵に戻る事にした。

 早雲は一休とお森の仲睦まじい生活を見守りながら、本物の禅とは何か、真剣に考えた。

 座禅をするだけが禅ではない。

 常住坐臥(じょうじゅうざが)、すべてに置いて禅の境地でいなければならないはずだ。

 禅は大寺院の中にいる坊主だけのものではない。人間本来の姿で生活し、その生活の中に生きていなければ無意味と言えた。

 一休は本物の禅をさらに進め、それを実践しているのかもしれない‥‥‥と早雲は考え直した。

 形式にこだわり過ぎていたのかもしれないと思った。世を捨て、禅の世界に生きようと、頭を剃って禅僧のなりをした。確かに禅僧の格好をしていれば、回りは早雲を禅僧と見てくれた。正式に出家したわけではなかったが、駿河では早雲禅師で通っていた。回りから偉い和尚さんだと言われ、得意になっていた。しかし、反面、偽者だとばれやしないかと心配した事もないわけではなかった。今回、一休を訪ねたのも、本当の所を言えば、一休の正式の弟子となって、できれば、一休から印可状を貰い、本物の禅僧になりたかったからだった。そんな思いで訪ねた一休の姿を見て、早雲は初め、失望した。しかし、そのうちに、一休に思いきり殴られたような衝撃を感じるようになって行った。

 早雲は自分がかつて一休と共に語った堕落した禅僧というものに、知らないうちに自分が近づいていたという事に気づいた。二人が語った堕落した禅僧というものは、ろくに修行もしないで、師匠からの印可状ばかり欲しがり、禅僧とは名ばかりで俗世間において出世する事ばかり考えている者たちの事だった。

 禅の世界は自力本願だった。自分の力で悟らなければならず、決して、人から教えられて分かるものではなかった。たとえ師匠であっても、助ける事はできるが教える事はできない。

 一休から見れば、印可状などというのは、単なる自己満足でしかない無用な物であった。禅僧とはいえ、というものは脆い。自分が開いた悟りを誰かに認められたいと誰もが思う。そして、師匠から印可状を貰って、初めて悟った事を確信する。しかし、一度、悟れば、それで終わりというわけではない。人間、生きている以上、次々に悩みは生まれて来る。それを次々に乗り越える事によって、さらに大きな悟りの境地に達する。悩み、悟り、そして悩み、また悟る、生きている以上、その繰り返しだった。

 本物の禅には印可状など、ないはずだった。

 早雲はその印可状が欲しいために、ここを訪れ、一休の姿を見て、思いきり殴られたような衝撃を感じ、そんな事を考えていた自分を恥じた。一休は自分が考えていた以上に先を歩いていた。早雲は俗世間における形式にこだわっていた自分を恥じた。

 早雲も男だった。女を見ても何にも感じないような木偶(でく)の坊ではなかった。しかし、僧侶の振りをしているため、今まで色欲(しきよく)を抑えて来た。禅僧として、それが当然な事だと思っていた。禅僧としては当然かもしれないが、それは、本物の禅とは言えなかった。

 本物の禅とは、何事にも縛られない、融通無碍(ゆうづうむげ)の境地の事だと思った。欲望を抑えて女を避けているうちは融通無碍の境地とは言えない。何人もの女に囲まれながらも、心を奪われないような境地にならなければならないのだった。

 何事にも囚われず、まったくの自由な境地‥‥‥

 その境地まで行くのは、決して簡単な事ではない。しかし、本物の禅の境地とは、そのようなものに違いないと悟った。

 一休は八十歳を過ぎ、まさしく、その境地に達しようとしているのであった。すでに、融通無碍の境地の中で、お森という女と遊んでいるのかもしれない。

 早雲は一休だけでなく、お森という盲の女も観察していた。この女も一休と同じ境地にいるように思えた。目が見えないため、一休のように苦労しなくても、その境地にたどり着く事ができたのかもしれなかった。

 早雲は晴れ晴れした気持ち酬恩庵を後にした。




陰の流れ 愛洲移香斎 第三部 本願寺蓮如
陰の流れ 愛洲移香斎 第三部 本願寺蓮如

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下間蓮崇の百日行

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陰の流れ 第三部・本願寺蓮如 32.再会2」より蓮崇の百日行


本願寺破門になった蓮崇風眼坊(後の風摩小太郎)と共に吉崎を去り、近江の飯道山に来ます。武術道場として栄えていた飯道山を見た蓮崇は自分も武術を習おうと思い、風眼坊弟子にしてほしいと頼みます。風眼坊は弟子にしてもいいが、山の中を百日間、歩き通す百日行ができれば弟子にしてやると言います。蓮崇は決心を固めて百日行を始めますが、それは思っていた以上に辛い修行でした。たまたま一緒にいた早雲も自分の悩みを解決するために蓮崇に付き合って百日行を始めます。


 一ケ月が過ぎた。

 山々が色づき始めた。

 蓮崇は歩き通していた。

 体付きや顔付きはすっかり変わって来ていた。髭や髪が伸びて来たせいもあるが、目がギラギラと輝き、一種の気魄(きはく)というものが感じられた。

 風眼坊は、もしかしたら、蓮崇百日間、歩き通すかも知れないと思った。なぜか、早雲の方がおかしくなって来ていた。ほとんど口も利かなくなり、苦しそうに歩いていた。

 早雲も風眼坊も蓮崇よりも年上だった。風眼坊の方は一年半前までは大峯にいたので、まだ体はできているが、早雲の方は山歩きに慣れているとはいえない。蓮崇程ではないにしろ、かなり、きついはずだった。

 早雲が一番先を歩き、蓮崇が歩き、風眼坊は一番最後を散歩している気分で歩いていた。

 今が一番、きつい時だろう。今を乗り越え、半分の五十日を乗り越えれば、何とか歩き通す事ができるだろうと風眼坊は思った。

 三十三日目だった。

 怪石奇岩の並ぶ、竜王山へと続く道を歩いている時、突然、前を歩く蓮崇が崩れるようにして倒れ込んだ。

 風眼坊は駈け寄った。

 蓮崇は苦しい息をしながら目を剥き、風眼坊の方を見ながら手を高く差し延べ、何かをつかもうとしていた。やがて、その手は力なく落ちると蓮崇は目をつむり、『南無阿弥陀仏』と呟くと、ガクッとなった。

 風眼坊は慌てて、前を行く早雲を呼んだ。

 蓮崇は意識を失い、を見ていた。

 蓮崇はお花畑の中に立っていた。

 遠くの方から何とも言えない妙な調べが流れていた。

 空には紫色した雲がたなびいている。

 浄土だな、と思った。

 やっと、浄土に来られた。辛い山歩きも、もう終わったんだな、と思った。

 お花畑の向こうから女の子が蓮崇の方に走って来た。

 誰だろう。

 何となく、見た事あるような気がした。近づいて来るにしたがって、その女の子が蓮崇の娘だと分かった。流行り病に罹って七歳で亡くなった、あや、という娘だった。

 あやは蓮崇に飛び付いて来た。そして、淋しかったと言いながら泣き出した。

 蓮崇は娘と手をつないで、お花畑を歩いていた。

 急に娘が蓮崇の手を引っ張った。蓮崇は引っ張られるままに娘に付いて行った。

 娘に引かれて行った所には綺麗な大きな湖があった。湖の中央に円錐形の形のいい山が聳(そび)えていた。

 娘は蓮崇を水際まで連れて行った。

 水際に女がしゃがみ込んで何かを拾っていた。

 女は蓮崇に気づいて振り向き、ゆっくりと立ち上がった。

 その女は蓮崇の母親だった。しかし、蓮崇がまだ子供だった頃のままで、蓮崇よりも年がずっと若かった。

 女は蓮崇を見て笑った。

 蓮崇も笑ったが、変な気分だった。自分の母親が自分よりも若いという事がおかしかった。

 母親は蓮崇の名を呼んだ。懐かしい声だった。蓮崇は子供に戻ったかのように母親に抱き着いて行った。不思議な事に蓮崇は母親に抱かれた瞬間、子供に変わった。

 蓮崇は母親に聞きたい事が一杯あったが、母親に会った瞬間、そのすべての事が分かったような気がした。

 子供に返った蓮崇は母親に舟に乗せられ、湖に漕ぎ出した。

 蓮崇は、母親が湖の中央に聳える山に連れて行ってくれるものと思っていた。あの山にはきっと阿弥陀如来様がいらっしゃるんだと信じていた。きっと親鸞聖人(しんらんしょうにん)様本泉寺の如乗(にょじょう)様もいらっしゃると思った。

 湖の中程まで来た時、母親は舟を止めた。

「母ちゃん、どうしたの」と蓮崇は聞いた。

「左衛門太郎や、下をごらん」と母親は言った。

 蓮崇は湖の中を覗き込んだ。

 綺麗な水の下に何かが見えた。大勢の人々が苦しんでいた。

地獄なんだね」と蓮崇は母親に言った。

「よく見るのよ」

 地獄なんか見たくはない、と思ったが、蓮崇は母親に言われた通り、もう一度、湖の中を見た。

 人々は血を流しなから苦しんでいた。地獄の鬼どもはひどい事をするな、と思ったが、鬼の姿はなかった。人々を苦しめていたのは同じ人間だった。何という悪い事をしてるんだと蓮崇は思いながら目をそむけた。

「駄目よ。よく見なさい」と母親は厳しい口調で言った。

 蓮崇には母親がどうして怒るのか、分からなかった。

 蓮崇はもう一度、湖の中を見た。

 『南無阿弥陀仏』と書かれた旗が見えた。やられているのは本願寺の門徒たちだった。女や子供も逃げ惑っていた。門徒たちを苦しめていたのは守護の兵だった。兵たちは面白がって無抵抗の門徒たちを攻めていた。

「やめろ!」と蓮崇は湖に向かって叫んだ。

「左衛門太郎や、お前は、あの人たちを見捨てるつもりなの」と母親は言った。

「だって、俺にはどうする事もできないよ」

「左衛門太郎や、あのお山には親鸞聖人様如乗様もいらっしゃるのよ。今のお前が、その方たちの前に行けるの。もう少しすれば蓮如上人様もいらっしゃるでしょう。お前は蓮如上人様と会って何というつもりだい」

「母ちゃん‥‥‥俺、まだ、やらなきゃならない事があるんだ。まだ、あのお山には行けないよ」

「分かってくれたんだね」

「母ちゃん、どうすればいいの」

「飛び込むのよ」

「この中に?」

「そう」

 蓮崇はじっと母親の顔を見つめた。

 母親は頷いた。

 蓮崇は思い切って湖の中に飛び込んだ。

 大きな渦に巻き込まれて、どんどん下に落ちて行くようだった。

 蓮崇は目を明けた。

 風眼坊早雲の顔があった。

「おい、大丈夫か」と風眼坊の声が聞こえて来た。

「蓮崇!」と早雲は怒鳴っていた。

「大丈夫です」と蓮崇は言って体を起こした。

「よかった‥‥‥死んじまったんかと思ったわ。脅かすな」

「死んだ‥‥‥死んだのかもしれない」

「何を言っておるんじゃ。脅かすなよ」と早雲は言った。

浄土を見たんじゃ‥‥‥」と蓮崇は言った。

浄土を見た?」と風眼坊は聞いた。

「はい‥‥‥わしは生き返ったのかもしれん‥‥‥」

「蓮崇、大丈夫か‥‥‥もう、やめた方がいいぞ。もう、充分やったろう、もう、気が済んだはずじゃ」と早雲は言った。

「いえ、大丈夫です。わしは本当に生き返ったんです。生まれ変わったんです」

 蓮崇は立ち上がった。

 体が軽くなったような気がした。

 蓮崇は杖を取り直すと歩き始めた。




陰の流れ 愛洲移香斎 第三部 本願寺蓮如
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